表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

62/65

言いかけた言葉

「明日の午後を空ける」──執務室で、あの人は短くそう告げた。


氷の大公(たいこう)が、半日の執務(しつむ)予定を空けた。それだけなら、いつものように予定表を繰って「承知しました」で済む話だ。上役の都合に振り回されて眠れなくなることなど、本来、何ひとつない。


なのに、その夜は、寝つけなかった。


寝不足は判断力を(にぶ)らせる。睡眠は最優先の労務管理である──と、ロザリンドは三度、自分に言い聞かせ、三度とも、目を開けた。


ひとつは、紙片のせいだ。


執務室で受け取った一枚を、寝間着(ねまき)の胸元から取り出してみる。


> ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


短い一行。何度読んでも、書いてある意味は同じ。なのに、その裏に、別の意味が一枚、折り畳まれている気がして、仕方がない。


──気のせい。寝る。それが顧問(こもん)の責務。


紙片を(まくら)の下に押し込んで、目を閉じた。


……閉じたまま、また、開けた。


もうひとつは──あの大公が、生まれて初めて、執務を空けたという、その一点だった。


仕事に隙のない人が。誰の都合にも予定を動かさない人が。よりにもよって、自分ひとりのために、半日を。


あの人、今日、何かを言おうとしていた。言いかけて、飲み込んだ。あの口の動きを、わたしは確かに見た。


ぱさり、と、誰かが心臓(しんぞう)の上に紙を一枚置いたみたいな感覚があって、それは、朝まで取れなかった。


雪は、まだ降っている。


***


翌朝。


執務室の扉を開けると、いつものように、机の端に紅茶と焼き菓子が置かれていた。


書き添えはない。


ロザリンドは少しだけ、肩の力が抜けた。


──よかった。普通の朝だわ。


そう思ったのも束の間。


「ロザリンド殿」


入ってきたのは、ルーカスではなく、側近のディーター卿だった。寡黙な(けん)達人(たつじん)として知られる男が、めずらしく扉のところで一拍止まり、咳払いを一つ落とす。


「閣下から伝言です」


「はい」


「『今日は、帳簿(ちょうぼ)も、ペンも、要らない』。閣下からは、それだけです」


ロザリンドはペンを取りかけた手を止めた。


「……会議、ではないのですね」


それは問いの形をしていたが、半分は、自分への確認だった。昨夜から胸の上に残っている紙片の重みが、答えを先に知っている気がした。


「会議では、ありません」


「視察でも、使節(しせつ)対応でも、ない」


「違います」


ディーター卿は、首を横に振った。それ以上の説明はなく、ただ、ほんの少しだけ、ロザリンドから視線を()らした。


仕えて長い剣の達人が、こんな顔をする閣下を、これまで一度も見たことがない──その戸惑(とまど)いが、男の肩のあたりに、静かに乗っていた。


ロザリンドは、しばし、自分のペン先を見つめる。


──業務でないのに、執務時間を空ける──?


数秒で、ロザリンドは一つの結論に着地した。業務ではない、上司との、一対一の時間──ああ、なるほど。今後のキャリアについての、面談だわ。顧問(こもん)契約の更新か、この先の処遇(しょぐう)の、相談か。


「……今後のキャリアについての、相談会、ということですわね」


ディーター卿は、肯定も否定も、しなかった。


ディーター卿の背中が、わずかに、固まった気がした。


ロザリンドは、気づかない。


***


午後。


ルーカスは、執務室にいなかった。


代わりに、ディーター卿に案内されたのは、城の東棟(とうとう)の奥──ロザリンドがまだ一度も入ったことのない回廊だった。天井が高く、窓に薄い氷が張っている。冬の光が、大理石(だいりせき)の床に長い影を落としていた。


ロザリンドは靴音を意識して、歩幅を一定に保った。


──業務管理上、未踏区画への立ち入りには、事前の申請が必要だったはず──。


考えかけて、やめた。今日の頭は、そういう順序で動いてくれない。


廊下の突き当たりに、ひとつの扉が半開きになっている。


ディーター卿は扉の手前で立ち止まり、深く一礼した。


「こちらでお待ちです」


それきり、彼は来た道を戻っていった。


中から、薪が爆ぜる小さな音だけが、聞こえてくる。


息を整えて、ノブに手をかけた。


***


部屋は、思っていたよりずっと、小さかった。書架(しょか)と、机と、暖炉と、椅子が二脚。


そして、窓辺に立ったルーカスがいた。


公務の正装ではなく、簡素(かんそ)な黒のシャツに上着を羽織(はお)っただけの姿。普段の彼が肩から下げている剣帯(けんたい)も、今日はない。


ロザリンドが入ってきたのに気づいて、彼は窓から目を上げた。


「来てくれたか」


「ご用件は」


ルーカスは少し笑ったように見えた。


「結論を最初に聞くところが、君らしいな」


ロザリンドは扉のところに立ったまま、わずかに首を傾げる。


「閣下、業務時間外の呼び出しは契約上、業務の目的を明示(めいじ)していただく必要が」


「ああ」


ルーカスは頷いて、暖炉の前の椅子のひとつを示した。


「座ってくれ。──業務ではない」


ロザリンドは、その「業務ではない」の四音を、口の中で繰り返した。


──……業務ではない、と、明言された。


労務管理ではない。会議ではない。視察ではない。


──では、これは……やはり、キャリアの、相談会? いえ。キャリアの相談なら、それもまた立派な「業務」のうち。なのに彼は、はっきり「業務ではない」と言った。


頭の中の社畜(しゃちく)OL田中律子(たなかりつこ)が、ひさしぶりに、引き出しの中に該当ファイルが見つからない顔をした。


「……閣下」


「ルーカスでいい。今日は」


「は」


今日は(・・・)


二度目の「今日は」が、ほんの少しだけ、低かった。


ロザリンドは、ゆっくりと、椅子に腰を下ろした。


「……ルーカス様」


呼び方を一段下げると、彼の肩の線が、ほんのわずか、ゆるんだのが見えた。


それから、彼は暖炉のほうに目を移した。


火が、ぱちりと爆ぜる。


「君がここへ来る、3年前(・・・)の話を、しても構わないか」


──え、と、ロザリンドは思った。


3年前。アルバートの王太子(おうたいし)主催のパーティ。社交会場(しゃこうかいじょう)の隅、誰にも話しかけられず、壁際で経済書を読んでいた、自分。


ぼんやりとした記憶の一場面が、ふと、頭の隅をかすめる。


そういえば、あの時、誰かが、隣に来た──?


ルーカスは、ロザリンドの方を見ずに、暖炉の火を見つめたまま、続ける。


「長くなる」


「……はい」


「そして、たぶん、君は驚く」


ロザリンドは、膝の上で、両手を、そっと組み合わせた。


胸元の寝間着に──いや、ドレスに、昨夜の紙片はもう、入っていない。けれど、胸の奥のいちばん深いところを、誰かの指先(ゆびさき)でそっと押されているような感触(かんしょく)だけが、まだ、そこに残っていた。


雪が、窓の向こうで、しんしんと降り続けている。


ルーカスが、ゆっくりと、息を吸った。


ほんとうは昨夜、彼が言いかけて飲み込んだ言葉があった。その影だけが、まだ、暖炉のそばに置き去りにされている。


仮面(かめん)が、外れる音がした。


「君が選ばなかった未来を、俺は誇りに思う」の紙片を何度も読み返すじれ甘にきゅんとしたら、【にこにこ】か【いいね】を! ★は彼女の背中をそっと押すつもりで。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ