言いかけた言葉
「明日の午後を空ける」──執務室で、あの人は短くそう告げた。
氷の大公が、半日の執務予定を空けた。それだけなら、いつものように予定表を繰って「承知しました」で済む話だ。上役の都合に振り回されて眠れなくなることなど、本来、何ひとつない。
なのに、その夜は、寝つけなかった。
寝不足は判断力を鈍らせる。睡眠は最優先の労務管理である──と、ロザリンドは三度、自分に言い聞かせ、三度とも、目を開けた。
ひとつは、紙片のせいだ。
執務室で受け取った一枚を、寝間着の胸元から取り出してみる。
> 君が選ばなかった未来を、俺は誇りに思う
短い一行。何度読んでも、書いてある意味は同じ。なのに、その裏に、別の意味が一枚、折り畳まれている気がして、仕方がない。
──気のせい。寝る。それが顧問の責務。
紙片を枕の下に押し込んで、目を閉じた。
……閉じたまま、また、開けた。
もうひとつは──あの大公が、生まれて初めて、執務を空けたという、その一点だった。
仕事に隙のない人が。誰の都合にも予定を動かさない人が。よりにもよって、自分ひとりのために、半日を。
あの人、今日、何かを言おうとしていた。言いかけて、飲み込んだ。あの口の動きを、わたしは確かに見た。
ぱさり、と、誰かが心臓の上に紙を一枚置いたみたいな感覚があって、それは、朝まで取れなかった。
雪は、まだ降っている。
***
翌朝。
執務室の扉を開けると、いつものように、机の端に紅茶と焼き菓子が置かれていた。
書き添えはない。
ロザリンドは少しだけ、肩の力が抜けた。
──よかった。普通の朝だわ。
そう思ったのも束の間。
「ロザリンド殿」
入ってきたのは、ルーカスではなく、側近のディーター卿だった。寡黙な剣の達人として知られる男が、めずらしく扉のところで一拍止まり、咳払いを一つ落とす。
「閣下から伝言です」
「はい」
「『今日は、帳簿も、ペンも、要らない』。閣下からは、それだけです」
ロザリンドはペンを取りかけた手を止めた。
「……会議、ではないのですね」
それは問いの形をしていたが、半分は、自分への確認だった。昨夜から胸の上に残っている紙片の重みが、答えを先に知っている気がした。
「会議では、ありません」
「視察でも、使節対応でも、ない」
「違います」
ディーター卿は、首を横に振った。それ以上の説明はなく、ただ、ほんの少しだけ、ロザリンドから視線を逸らした。
仕えて長い剣の達人が、こんな顔をする閣下を、これまで一度も見たことがない──その戸惑いが、男の肩のあたりに、静かに乗っていた。
ロザリンドは、しばし、自分のペン先を見つめる。
──業務でないのに、執務時間を空ける──?
数秒で、ロザリンドは一つの結論に着地した。業務ではない、上司との、一対一の時間──ああ、なるほど。今後のキャリアについての、面談だわ。顧問契約の更新か、この先の処遇の、相談か。
「……今後のキャリアについての、相談会、ということですわね」
ディーター卿は、肯定も否定も、しなかった。
ディーター卿の背中が、わずかに、固まった気がした。
ロザリンドは、気づかない。
***
午後。
ルーカスは、執務室にいなかった。
代わりに、ディーター卿に案内されたのは、城の東棟の奥──ロザリンドがまだ一度も入ったことのない回廊だった。天井が高く、窓に薄い氷が張っている。冬の光が、大理石の床に長い影を落としていた。
ロザリンドは靴音を意識して、歩幅を一定に保った。
──業務管理上、未踏区画への立ち入りには、事前の申請が必要だったはず──。
考えかけて、やめた。今日の頭は、そういう順序で動いてくれない。
廊下の突き当たりに、ひとつの扉が半開きになっている。
ディーター卿は扉の手前で立ち止まり、深く一礼した。
「こちらでお待ちです」
それきり、彼は来た道を戻っていった。
中から、薪が爆ぜる小さな音だけが、聞こえてくる。
息を整えて、ノブに手をかけた。
***
部屋は、思っていたよりずっと、小さかった。書架と、机と、暖炉と、椅子が二脚。
そして、窓辺に立ったルーカスがいた。
公務の正装ではなく、簡素な黒のシャツに上着を羽織っただけの姿。普段の彼が肩から下げている剣帯も、今日はない。
ロザリンドが入ってきたのに気づいて、彼は窓から目を上げた。
「来てくれたか」
「ご用件は」
ルーカスは少し笑ったように見えた。
「結論を最初に聞くところが、君らしいな」
ロザリンドは扉のところに立ったまま、わずかに首を傾げる。
「閣下、業務時間外の呼び出しは契約上、業務の目的を明示していただく必要が」
「ああ」
ルーカスは頷いて、暖炉の前の椅子のひとつを示した。
「座ってくれ。──業務ではない」
ロザリンドは、その「業務ではない」の四音を、口の中で繰り返した。
──……業務ではない、と、明言された。
労務管理ではない。会議ではない。視察ではない。
──では、これは……やはり、キャリアの、相談会? いえ。キャリアの相談なら、それもまた立派な「業務」のうち。なのに彼は、はっきり「業務ではない」と言った。
頭の中の社畜OL田中律子が、ひさしぶりに、引き出しの中に該当ファイルが見つからない顔をした。
「……閣下」
「ルーカスでいい。今日は」
「は」
「今日は」
二度目の「今日は」が、ほんの少しだけ、低かった。
ロザリンドは、ゆっくりと、椅子に腰を下ろした。
「……ルーカス様」
呼び方を一段下げると、彼の肩の線が、ほんのわずか、ゆるんだのが見えた。
それから、彼は暖炉のほうに目を移した。
火が、ぱちりと爆ぜる。
「君がここへ来る、3年前の話を、しても構わないか」
──え、と、ロザリンドは思った。
3年前。アルバートの王太子主催のパーティ。社交会場の隅、誰にも話しかけられず、壁際で経済書を読んでいた、自分。
ぼんやりとした記憶の一場面が、ふと、頭の隅をかすめる。
そういえば、あの時、誰かが、隣に来た──?
ルーカスは、ロザリンドの方を見ずに、暖炉の火を見つめたまま、続ける。
「長くなる」
「……はい」
「そして、たぶん、君は驚く」
ロザリンドは、膝の上で、両手を、そっと組み合わせた。
胸元の寝間着に──いや、ドレスに、昨夜の紙片はもう、入っていない。けれど、胸の奥のいちばん深いところを、誰かの指先でそっと押されているような感触だけが、まだ、そこに残っていた。
雪が、窓の向こうで、しんしんと降り続けている。
ルーカスが、ゆっくりと、息を吸った。
ほんとうは昨夜、彼が言いかけて飲み込んだ言葉があった。その影だけが、まだ、暖炉のそばに置き去りにされている。
仮面が、外れる音がした。
「君が選ばなかった未来を、俺は誇りに思う」の紙片を何度も読み返すじれ甘にきゅんとしたら、【にこにこ】か【いいね】を! ★は彼女の背中をそっと押すつもりで。




