身重の妻には障るから、と夫は別の女のもとへ
「世継ぎ様の母君、本日もお美しゅう」
鏡越しに、侍女の声が聞こえた。
ミリアは、自分の顔をじっと見つめる。
出産から一ヶ月。化粧で隠した目の下の痣も、頬の落ち窪みも、よく見れば残っている。
それでも侍女たちは「お美しゅう」と言う。
嘘ではない。彼女たちが見ているのは、「ミリア」の顔ではないのだから。
「世継ぎ様の母君」という肩書きが、椅子に座っている。それを見て、お美しゅう、と。
「……私は、ミリアよ」
ぽろりと、口から零れた。
侍女の手が止まった。櫛が宙に浮く。困った顔。心の底から、困った顔。
「はい……あなた様は、妃殿下候補。いいえ──世継ぎ様の母君です」
「そう」
ミリアは、もう聞き返さなかった。
***
午後、公式行事。
赤い絨毯を、ミリアは歩いた。司会の声が高く響く。
「世継ぎ様の母君、御入場」
貴族たちが、波のように頭を垂れる。
その波のどこにも、「ミリア・ロウ」という名前はなかった。
聖女候補だった頃は、人は彼女を「ミリア」と呼んだ。田舎の男爵家の娘だった頃でさえ。父も、妹も、家庭教師も。取り巻きの令嬢たちでさえ「ミリア様」と。
今は、誰も呼ばない。
椅子に座る。微笑む。手を振る。瞳を潤ませる──これだけは、まだ得意だ。涙の演技は、産後も筋肉が覚えていた。
自分の中に、唯一残った技能。
***
同じころ。大公国、北の議事堂。
「──エイベル経済顧問の試算どおりにございます。来期の関税収支、黒字に転じます」
書記官の声に、居並ぶ文官たちの視線が、いっせいにロザリンドへ集まった。まっすぐな、称賛の視線。
「ロザリンド殿の読みだ。私ではない」
上座のルーカスが、短く言う。手柄を、正しく名指しで返す声だった。
ここでは、誰もが彼女を名で呼ぶ。「エイベル顧問」「ロザリンド殿」と。働きには、きちんと名前がついて回る。
「では、次の議題へ移りましょう」
ロザリンドは涼やかに書類をめくった。自分の名が、自分の仕事として扱われること──それを、特別なことだとも思っていない横顔だった。
***
夕食の席。
王太后と、二人きり。アルフレッドは来ない。今夜も、来ない。
「私の頃は、産後三日で公務に戻りましたわ」
王太后が、スープを運ぶ手を止めずに言った。
「乳の出も豊かでねぇ。乳母など要りませんでしたわ」
スプーンが皿に当たる、小さな音。
「世継ぎ様にお会いになる時間も、決まりがございますのよ。母君が頻繁に顔を出すと、情が湧きすぎますから」
──情が、湧きすぎる。
──何よ、それ。要するに、私が関われば子の育ちに障る、と言いたいの。母親が顔を出すと毒になる、とでも。
──実の母より、自分のほうが正しく育てられる。いつもの、それ。この姑が、勝手に決めつけているだけじゃない。
ミリアはスプーンを強く握った。
──けれど。
握りしめた指から、すっと力を抜く。眉を和らげ、口角を上げ、瞳に慕わしげな潤みまで足して。一拍で、満面の笑みを作りあげる。
「はい、お義母様。仰せのとおりに」
唯一残った技能は、こんなときにこそ役に立った。
スプーンをそっと、皿に戻した。
***
夜。寝台。
侍女たちが下がる気配の向こう、扉の外から、囁き声が漏れてきた。
「陛下が、新しい伯爵令嬢を……」
「クラリス様、とおっしゃるそうよ。それはそれはお美しい方で」
「妊娠中の妃にお触れになるのは不謹慎、というのが陛下のお考えで……」
「もう、産んでらっしゃるのにねえ」
くすり、と笑う声。足音が遠ざかる。
陛下は産む前から一度も、私の部屋にいらっしゃらない。
懐妊がわかって、医師に安静を命じられた、あのときから。「身重の妃に障ってはならぬ」と、もっともらしい顔で足を向けなくなった。
──私が床に伏せて、子を産むことだけに縛られているあいだに、あの方は、別の女の部屋へ通っていた。
産んだら産んだで、今度はもう、次の女。
──都合のいいときだけ、呼んでおいて。
あの方は、お姉様のこともこうやって切り捨てたんだわ。飽きたら、次へ。婚約破棄の夜、選ばれたと思っていたけれど──ただ、お姉様に飽きた、その先に私がいただけ。
──そもそも、お姉様の座は、私が狙って手に入れたものだ。上目遣いで「いじめられているのです」と涙を見せ、証言を整え、頃合いを計って、あの方に婚約破棄を決断させた。あれは、私の描いた筋書きどおりに運んだのだ。
──でも、それの何が悪いの。欲しいものを欲しいと願って、手を伸ばしただけ。最後に「やる」と決めて全部を壊したのは、陛下でしょう。私は、ただ、あの椅子が欲しかっただけ。こんな地獄がついてくるなんて、誰も、ひと言も教えてくれなかった。
──なんて、ひどい人。
世継ぎを産めば、愛していただける。誰よりも上の椅子に座れる。そう信じていた。
産んだら、私は「世継ぎを産んだ女」になった。それだけ。
寝返りを打つ。下腹がまだ痛む。「大袈裟ですよ」と笑われた血は、いまも止まりきっていない。
──冗談じゃないわ。
考えれば考えるほど、腹が立った。
夫は別の女のもと。子は乳母に取られ、名前すら勝手に決められた。私を呼ぶ声からは、「ミリア」が消えた。血を流したまま、書類に埋もれて、それでも笑っていろという。
これが、聖女候補だった私の、行き着いた場所?
──聖女という名の、ただ働きの女中じゃないの。
望んだのは、こんなものじゃない。輝かしい未来のはずだった。それなのに、どうして、私だけが、こんな目に。
ぐらり、と腹の底で、黒いものが煮えた。眠れそうに、なかった。
***
翌朝、寝室の扉を叩いたのは、王太后でも、侍女でもなかった。
「聖女候補ミリア・ロウ殿。神殿より、至急の通達にございます」
教会の使者は、頭を下げなかった。
封蝋に刻まれていたのは、聖印ではなく、保留の二文字だった。
聖女の、認定が。保留。
妃殿下候補の座は、もう遠い。母の名は、誰も呼ばない。そうして今、最後に残っていた「聖女」という二文字さえ、宙づりにされた。
──なぜ。
私は、ただ、家族のために。ほんの少し、記録を整えただけ。誰も、傷つけていないのに。
震える指で、通達を取り落とした。
──お姉様。
ぜんぶ、お姉様のせいだ。
あの女は、最初から知っていたのだ。この椅子が、どれほどの地獄か。
妃の座が、母の名を奪い、聖女の二文字まで呑み込む化け物だと──ぜんぶ、ぜんぶ、知っていた。
知っていて、黙って、私に押しつけた。「どうぞ、あなたが」と譲って、私を嵌めたのだ。
自分だけ、さっさと大公国へ逃げ出して。今ごろ暖かい部屋で、ぬくぬくと笑っているに違いない。私が一枚ずつ剥がされていくのを、高みから眺めて。
奥歯を、ぎりと噛みしめた。
──許さない。
ぜんぶ、あの女のせいだ。私は、何ひとつ、悪くない。
ただ、はめられただけ。
「私の名前、最近呼ばれてない」と気づいた夜のある方へ、【泣ける】を。夫が身重の妻を放って別の女のもとへ——その覚えに胸がざわついた方は、【いいね】も。そして、足元が崩れ出す"聖女、保留"のひと言にぞくっとしたら、【びっくり】を。




