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熱は、母の前では出ない

世継(よつ)ぎ様が、お熱を」


侍女が走り込んできたのは、夜明け前のことだった。


ミリアは寝台で半身(はんしん)を起こした。下腹部(かふくぶ)の鈍い痛みも、まだ消えきらない傷の(うず)きも、その一声で吹き飛んだ。


熱を出した子の前では、母の体は痛みを忘れる。


「ライオネルが──いえ、世継ぎ様が、どこに」


「別棟にて、王太后陛下(おうたいごうへいか)が侍医をお呼びでございます」


「私も、行きます」


寝台から足を下ろした瞬間、視界が揺れた。それでも構わない。素足(すあし)のまま敷布(しきふ)を踏んだ。


妃殿下(ひでんか)候補」


侍女が、ぴたりと前に立った。


「王太后陛下より、母君(ははぎみ)は寝室にてお控えくださいませ、との御達(おたっ)しが」


「……何ですって」


「お疲れの母君のお顔を、お熱の世継ぎ様にお見せするのは、お障りになります、と」


熱を出した子から、母を遠ざける理由が、その口から出てきた。


ミリアは、立ったまま動けなかった。


──あの人が、そう言わせているんだわ。


王太后だ。侍女の口を借りて、母と子のあいだに、また一枚、扉を立てた。


子が熱を出した夜にすら、母を近づけない。あの人にとって私は、世継ぎを()むためだけの(こま)だった。盤に世継ぎさえ(のこ)れば、役目を終えた駒など、もういらない。


「お疲れの母君のお顔を」だなんて、よく言える。私を気遣(きづか)うふりをして、母の座から一歩ずつ押し退()けて、孫を丸ごと抱え込むつもりのくせに。


──あの性悪(しょうわる)

──いっそ、地獄に落ちればいいのに。母から子を奪うことを「養育」と言い換えて恥じない、その性根(しょうね)のまま。


***


昼前、別棟から短い報せが届いた。


「世継ぎ様、お熱下がられました。御快復(ごかいふく)に向かわれております」


それだけだった。母君へ、の宛名すらない。書記官への業務通達(つうたつ)のような書きぶり。


ミリアは、それを二度、読み返した。


下がった。よかった。


胸を撫で下ろしたのは、ほんの一瞬だった。


あの子は別棟で、最上の乳母に守られ、私の手など借りずに熱を乗り越えた。私がいてもいなくても、何も変わらない。


母の心配さえ、ここでは「お障り」と呼ばれ、つまみ出される。


──なぜ、私だけが、こんな目に遭うの。私は、何も悪いことなんて、していないのに。


熱が下がった安堵より先に、その思いが胸をせり上がる。自分でも、止められなかった。


***


午後、王太后の部屋に呼ばれた。


「世継ぎ様の御快復、おめでとうございます」


ミリアは、頭を下げた。


「ええ、本当に」


王太后(おうたいごう)は、紅茶のカップを傾けた。


「私が一晩中つきっきりで侍医に指示(しじ)を出しましたのよ。やはり、こういう時は、ものをわきまえた方の判断が要りますの。()()()()()()()()、熱の子に母が付き添えば障りになると察して、御自分から、近づくのはお控えになったでしょうね」


「……」


カップが、皿に置かれる小さな音。


ミリアの中で、何かが、薄い音を立てた。


笑顔を作る。震えそうな手は、膝の上で握り込む。涙は──いえ、今日は出さない。ここでは涙など武器(ぶき)にもならない。武器は全部、王太后の側にある。


──この()け物。


声にしなければ、胸の中で何を思おうと、自由だ。


一晩中つきっきりで指示を出した、ですって。よくも言えたもの。


(そば)で侍医を怒鳴(どな)りつけていただけのくせに、子が快復すれば手柄はぜんぶ自分のもの。私は寝室に押し込められ、報せ一つ、宛名すらもらえなかったのに。


孫を取り上げて「養育の差配」と呼び、母を遠ざけて「お障り」と呼ぶ。言葉だけを美しく飾って、やっていることは、母から子をもぎ取り、自分の手駒として抱え込むことだけ。先代の妃殿下とやらも、きっと同じやり方で干上がらせたに違いない。


なのに、誰もこの人を咎めない。咎められるのは、いつも、椅子に座らされた私のほう。


「お義母様(かあさま)の御差配のおかげで、世継ぎは(すこ)やかに過ごせます。感謝申し上げます」


声が、自分のものではない女のように聞こえた。


「よろしい」


王太后は、満足げに頷いた。


「それと、もう一つ、お話が」


***


「御料地の会計(かいけい)に、些少(さしょう)の御(みだ)れがあるようでしてね」


王太后の声音は、紅茶の温度のまま、変わらなかった。


「教会への寄付の御名義を、あなたが立てておられたでしょう。御名義書(おんめいぎしょ)(うつ)しと、教会側の受領記録(じゅりょうきろく)に、わずかな差があるそうですの。ほんのわずか。けれど、わずかだから、よくないのです」


紅茶のカップの縁を、指で撫でながら。


御名義人(おんめいぎにん)は、あなたですから。万一、御吟味(ごぎんみ)の場が立つようなことがあれば、お答えになるのも、あなたですわね」


ミリアの背筋が、しんと冷えた。


教会への寄付。──聖女(せいじょ)候補だった頃、家族のために、ほんのわずか流した記録(きろく)のことだ。バレないように、(ざつ)に。


あの「雑に」が、今、輪郭(りんかく)を持って、こちらに歩いてくる。


──いや、聖女候補の頃だけではない。妃候補になってからも、侍女の差し出す束をろくに読まずに署名した。「お読みになった上で」と言われても、見出(みだ)しだけ(なが)めてペンを置いた。何が紛れていたのか、確かめもせずに。


──でも、それは、私に押しつけた皆が悪いのだわ。


「ご心配なさらないで」


王太后は、ゆっくりと微笑んだ。


「いますぐ、どうこう、という話ではございませんの。ただ、御名義人としての御自覚だけは、お持ちくださいませね。──いつ、どこから、お声がかかるか、わかりませんもの」


握っていた手のひらに、(つめ)の跡がついた。


***


部屋に戻る廊下で、すれ違いざまに、侍女たちの声が耳の端をかすめた。


「クラリス様のお披露目(ひろめ)、来月だそうよ」

「もう、御正式な御寵姫(ごちょうき)でいらっしゃるのね」

「あら、それでは、世継ぎ様の御養母(ごようぼ)も──」


足音が遠ざかる。


ミリアは、廊下の中央で立ち止まった。


新しい寵姫。御養母。


私が産んだ子の、母の席が、もう一つ、別の女のために用意されている。


──陛下は、何をなさっているの。


産ませるだけ産ませて、見舞いの一言もなく、新しい女のお披露目の支度。私の子の「母」を別の女に挿げ替えようとして、止めもしない。


なのに、誰も陛下を責めない。責められるのは、いつも、座らされた女のほうだ。


***


同じ夕暮れ。大公国、執務室。


「ロザリンド」


決裁の途中で、ルーカスが名を呼んだ。肩書ではなく、ただ、名を。


「根を詰めすぎだ。今日はもう休め」


「まだ、片づきます」


「君が倒れたら、俺が困る」


それだけ言って、彼はロザリンドの手から、そっとペンを抜き取った。


休め、という声に、裏がない。案じられている、と素直に思えた。


***


夜。


寝台に(よこ)たわって、ミリアは、自分の胸にそっと手を当てた。


そこには、もう、何もない。


熱は、出なかった。


体の熱ではなく、母としての熱が。あの子のために本当に駆け出せる熱が、自分の中に、まだあるのかどうか──確かめる方法すら、ここでは(うば)われている。


別棟の灯は、今夜も、別の腕の中でともっている。


そして机の上には、「世継ぎ様の母君」宛ての書類が、新しい山となって積まれていた。


その一番上に、もう一通、見覚えのない封蝋が乗っている。


教会の、紋章だった。


ミリアの指が、ゆっくりと、それに伸びた。


(ふう)を裂く。たった三行だった。


御料地会計の御吟味(ごぎんみ)につき、御名義人(おんめいぎにん)ミリア・ロウの出頭を求める──と。


差出(さしだし)は、教会。王家の名は、どこにもなかった。


ああ、とミリアは思った。


あの人は、王家の名を一つも汚さずに、私の名だけを矢面に立たせる気だ。もう、私を「世継ぎの母」としてすら、置いておくつもりがない。


味方はいない。陛下も、教会も、この宮殿の壁一枚までも、ぜんぶ、あの人の側。私の名を、私の名のまま呼ぶ人は、この国に、ひとりも──


そこまで考えて、ミリアは、ふと、寝台から身を起こした。


──そもそも、どうして、私が。


この席は、私のものではなかったはずだ。あのとき、あの女が、おとなしく王妃になってさえいれば。義務も、責めも、白い目も、ぜんぶ、あの女が引き受けていたはずだった。それを、笑って放り出して、他国へ逃げた。


そうよ。元はといえば、あの女が、あっさり婚約破棄を受け入れて、逃げたから、私がこうなったのだわ。


だったら、あの女には、私を助ける義務(ぎむ)がある。


震える指が、ペンを取った。封蝋もない安手の便箋に、宛名を書きつける。


──ロザリンド・エイベル。


あの女になら、頼める。あの女には、私を助ける責任がある。そう信じて疑わないまま、ミリアはペンを走らせた。


その手紙が、北の執務机で、どんなふうに扱われることになるのかも──知らないまま。


熱を出した子に駆け寄ることすら「お障り」と止められ、夫は新しい女のお披露目支度。その理不尽に覚えのある方は、【いいね】を。そして——自分で雑に流した記録が、静かに足首を掴みにくる結末。歯車が回り出した手応えに、【びっくり】を。

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