あの子の名前は、昨日のうちに決まっていたらしい
産後二週間。
ミリアは寝台に座らされていた。背の半ばまで積まれた書類の山に、囲まれて。立ち上がるだけで下腹に鈍い熱が走る。
「世継ぎ様に障りますから、安静になさってくださいませ」
侍女はそう言って、また新しい束を運んでくる。
──安静にしろと言うのなら、なぜ書類が増えるのか。
聞かなかった。答えは「妃の務めにございますから」と同じだからだ。
便利な言葉だこと。体調を崩せば「お体の管理がなっていない」。休みたいと言えば「妃の務めにございます」。
この体は、いつから私のものでなくなったのだろう。
──おかしいでしょう、こんなの。
羽根ペンを握る指が痺れる。文字が二重に見える。
けれど止めれば、「妃の自覚が足りない」と王太后の耳に届く。
「ミリア様、お茶を」
侍女が湯飲みを差し出した。ミリアは口を開きかけて、やめた。
茶を飲む暇があるなら一枚多く捌け。誰でもない、自分の中の声がそう言う。
産む前は、これほどの量は回されなかった。守られていたのは私ではない。腹の中の、あの子だったのだ。
産んだばかりの妃に、休む間も与えず筆を握らせて、それで「妃の務め」。
──私は聖女よ。神に選ばれた女が、なぜこんな雑な扱いを受けなければならないの。世の中、腐ってるわ。
それでもミリアは、侍女の前では、にこやかに次の一枚へ手を伸ばした。
***
そのころ、大公国ヴェルナント、執務室。
ロザリンドは羽根ペンを置こうとして、置けなかった。次の書類が、もう手の中にあったからだ。
文字がにじむ。瞬きして焦点を合わせ直すと、数字の桁が一つずれて見えた。
──あと一枚。手を伸ばした拍子に、ペン先が紙を滑り、いびつな線を引いた。
扉が開く。ノックはなかった。この部屋にノックなしで入れる者は、一人しかいない。
「終わりだ」
ルーカスの低い声。
「え?」
顔を上げると、ルーカスが手から羽根ペンを引き抜いていた。抗議しようとして、できなかった。彼の視線が、自分の手元に──インクのにじんだいびつな線に、落ちていたからだ。
「字が歪んでいる」
怒ってはいない。けれど、いつもより少しだけ、低い声だった。
「……気づきませんでした」
「だろうな」
ルーカスは書類を二つの山に分け直しはじめた。手際が良すぎて、止める間がなかった。
「明日でいいものと、今夜でなければ困るもの。──今夜でなければ困るものは、ない」
「ですが、関税の修正案は──」
「私が朝までに目を通す」
ロザリンドは口を開きかけて、閉じた。この男は、私の業務量を、私より正確に把握している。
ルーカスは長椅子の脇の膝掛けを取り、ロザリンドの膝に無造作にかけた。冷めた茶を下げ、新しい湯飲みを置く。湯気の温度まで、ちょうどいい。
「君は、自分が疲れていることに、いつも一番最後に気づく」
淡々と、けれど目はそらさずに。
「明後日、医師団を執務室に常駐させる。君の体調は、君が気づく前に拾えるようにしておく」
「そこまで──」
「この仕事は、一年や二年で終わるものじゃない」
書類の山を抱え直しながら、ルーカスは言った。
「長く続く。十年も、二十年も。だから、ここで君に倒れられては困る」
「……」
「君は仕事を、これからも続けたいんだろう?」
その一言で、口を噤んだ。
続けたい、と思っている自分に、ロザリンドはこの瞬間、気づかされた。──長く。これからも。倒れない範囲で、ずっと。
ルーカスは答えを待たなかった。それが当然だと最初から知っていたみたいに頷いて、書類の半分を抱えて出ていった。
残された湯飲みから、ちょうど飲み頃の湯気が立っている。
──ずいぶん、長い目で人を査定する上司だこと。
そう胸の中で呟いて、ロザリンドはようやく息を吐いた。
膝にかけられた膝掛けは、まだ彼の手のぬくもりを残している。
働き手を、使い潰さない。倒れる前に休ませ、長く働けるよう体ごと守る。
「長く働き続けられる労務環境、というものが、本当にあるのね」
ロザリンドは、湯気の向こうへ、誰にともなく声に出していた。
前世から数えて、どれだけ働いてきただろう。これほど当たり前に体を労わられたのは、初めてだった。
「ありがたいこと。良い上司に恵まれたものだわ」
素直に、そう呟いた。
温かい茶を、ひとくち。染み込むような甘さだった。
扉の脇で書類を抱えていた秘書官のアンナは、その呟きと横顔を見て、思わず天井を仰いだ。
膝掛け。湯気の温度。果ては明後日からの医師団常駐まで。あれだけ手を尽くしておいて、──「良い上司」の一語で片づけてしまわれるとは。
閣下があの方の前でだけ氷の仮面を脱ぐのを、自分はもう何度も、間近で見ているというのに。
(……気づいて。お願いですから、どうか一度、気づいてくださいませ……!)
込み上げる叫びを、アンナは抱えた書類の束に、ぐっと押し込めた。
***
翌日、ようやく面会の許可が下りた。
産んでから、四度目の面会。
乳母の腕の中で、息子は眠っていた。
頬は丸く、呼吸は穏やか。包まれた絹のおくるみは、王宮でも最上等のもの。乳母は王太后が大陸中から選り抜いた。
何ひとつ、不足はない。
ただ、ミリアの腕の中ではない。それだけ。
「お抱きになりますか、母君様」
──当たり前でしょう。私の子よ。許しを乞うて抱くものでもないわ。
──それに、母君、母君って。私には、ミリアという名前があるのよ。
胸の内で毒づきながら、ミリアは「ええ、ぜひ」と、花のように微笑んだ。
乳母が静かに息子を差し出した。
両手を伸ばす。震えた。受け取った瞬間、小さな体が身じろぎして──火がついたように泣き出した。
「あら、あらあら」
乳母が苦笑して手を伸ばす。
「慣れていらっしゃらないだけですわ。ご無理なさらず」
取り上げられた息子は、乳母の胸ですぐに泣き止んだ。まるで、本当の母がそこにいるみたいに。
ミリアは空になった腕を膝に置いた。手のひらに、子のぬくもりだけが薄く残っている。
──慣れていらっしゃらないだけ。
──その慣れる時間を、奪っているのは、そちらでしょう。
はらわたが、煮えくり返った。空になった腕に、ぐっと力がこもる。
それでも、ミリアは微笑みを崩さなかった。
ここで取り乱せば、「やはり母君は情緒が不安定」と、また一つ理由を与えるだけ。
──笑っていなさい。笑って、隙を見せてはだめよ。
煮えたぎる湯に、自ら蓋をするように。ミリアは、にっこりと頷いてみせた。
***
扉が開いた。
「世継ぎ様の母君」
王太后だった。
ミリアは反射的に背筋を伸ばした。下腹がずきりと痛む。顔には出さなかった。
「あなたは次の御子を授かることに専念なさい。育児は専門の者に任せれば良いのです」
王太后は孫を覗き込み、満足げに頷いた。
「この子の養育方針は、私が全て差配します。乳の与え方、寝かしつけ、御名の祝いの席次、家庭教師の選定──すべて。あなたは世継ぎを健やかに産んでくださった。十分、お役目は果たされたのですよ」
褒められている。頬を撫でられるような、優しい声音で。
──いいえ。これは、労いの顔をした引導だ。役目を終えた者へ渡す、お払い箱の。
乳の与え方も、寝かしつけも、ぜんぶそちら。母親に、子の何ひとつ触らせない。
──実の母より、自分のほうが正しく育てられるとでも?
腹の底でそう吐き捨てながら、ミリアは「ありがとうございます」と、たおやかに頭を垂れてみせた。
なのに、口は動かなかった。
「あの──」
絞り出すように言った。
「あの子の、名前は」
「ライオネル、と名付けました。アルバート王家にふさわしい御名でしょう」
ミリアは、知らなかった。
あの子の名前は、昨日のうちに、決まっていたらしい。
「世継ぎ様の母君は、ゆっくり静養なさい」
王太后は微笑んで、孫を抱いたまま部屋を出ていった。乳母も一礼して続く。
扉が閉じる。
寝室には、ミリアと、積まれた書類だけが残った。
──ライオネル。
唇の上で転がしてみる。知らない名前だった。
──私は、母親よ。
なぜ、相談のひとつもなく、勝手に決めるの。腹を裂いて産んだのは、私。それなのに、名前を選ぶ権利すら、与えられない。
ミリアは、閉じたばかりの扉を、きつく睨みつけた。
たおやかに頭を垂れていた、ついさっきまでの顔は、もうどこにもなかった。
***
翌朝、寝台の脇には新しい書類の山が届いていた。
その一番上に、一通の早馬便が乗っている。封蝋は後宮内のもの。
指が震えた。
──陛下から、お見舞いのお言葉だろうか。
産後、まだ一度も、夫は会いに来ていない。
息を整えて、封を切った。
そこにあったのは、見舞いの言葉ではなかった。
世継ぎ誕生を祝う、公式行事の式次第。出席者の名がずらりと連なっている。王太后。各国の使者。大司教。
そして、本来なら主役であるはずの、母の欄。
『世継ぎ様の母君、ご臨席のこと』
指が、止まった。
何度、目で追っても。
──「ミリア・ロウ」という名は、その紙のどこにも、なかった。
夫からの言葉も、一文字も。
求められているのは、ただ椅子に座って微笑む、役の名前だけ。
封蝋を割った意味すら、もう、わからなかった。
「君は、自分が疲れていることに、いつも一番最後に気づく」——膝掛け一枚、医師団の常駐、"続けたいんだろう?"の一言。こんなふうに労られたい方は、【にこにこ】を。産後すぐ書類に埋もれて休めなかった日に覚えがあるなら、【いいね】で「わかる」を。




