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産声は、私のものではなかった

「お連れします」


その一言で、息子は、ミリアの腕から離れた。


産声(うぶごえ)が、まだ部屋に残っていた。


羊水(ようすい)と血の匂いも、寝台に。脚の間の()て布は、まだ赤い。


それなのに、息子の体だけが、もう別の女の腕にあった。


「……あの、待って」


声が、掠れた。


「待って、まだ、お顔も……」


世継(よつ)ぎ様にございます」


老乳母(ろううば)は、それしか言わなかった。それで全部だった。


(きぬ)のおくるみに包まれた小さな(かたまり)が、視界の端を白く横切っていく。


誰かが扉を開ける。誰かが扉を閉める。


廊下を遠ざかる足音の中に、()き声が、混じっていた。


ミリアの、産声が。


***


妃殿下(ひでんか)候補。よくぞ、お務めを果たされました」


王太后(おうたいごう)が、寝台の脇に立っていた。いつから、そこにいたのか。


出産の間、確かに彼女は部屋の隅にいた。「立ち会い」ではなく、監督として。


「アルバート王家の世継ぎを、ご無事にお産みくださり、感謝いたします」


冷たい指が、汗ばんだ額を撫でるように拭った。


「これからは、ゆるりと、お休みなさいね」


蜜のような声音だった。


養育(よういく)のことは、こちらで全て差配しますわ。あなたは産むという尊いお役目を、見事に果たされたのですから。もう、お休みになって、いいのですよ」


──もう、お休みに、なって、いい。


優しい響きのはずなのに、背筋がすうっと冷えた。


それは、果たした者への労いではなく、()()()()()()()にかける言葉だった。


***


王太后が去ったあと、侍医がようやく寝台に近づいた。


「血が、まだ多い気がいたします」


ミリアは、震える指で、敷布(しきふ)の赤い染みを指した。さきほど替えたばかりの()て布が、もう重く湿っている。これがふつうのことなのか、自分では、もう判じることもできない。


「下腹も、こうして横たわっているだけで、(しぼ)られるように(うず)きます。指の先まで冷えて、寒いのに、汗ばかりが滲んで──」


産んだ体が、内側で静かに(きし)んでいた。痛みよりも、この(だる)さの底が見えないことが怖い。


侍医は、白い眉を寄せた。


「ご出産直後ですから、大袈裟(おおげさ)になられるのは皆様同じでございます」


事務書類を読み上げるような声だった。


「世継ぎ様にお障りがあってはなりませぬ。お気を強く、しっかりお持ちくださいませ」


その「しっかり」が、首を薄く()めた。


「……ええ。ありがとう。心強いわ」


ミリアは、聖女候補にふさわしい、花のような微笑みを浮かべてみせた。


──何が、しっかり、よ。


そのにこやかな仮面の裏で、舌打ちひとつぶんの熱が燃えていた。


──医者なら、薬のひとつも出しなさいよ。気の持ちようで血が止まるなら、あなたは何のためにいるの。痛いのは、わたくしよ。


侍医は深く頭を下げて、出ていった。


***


夕方。


寝台の脇に、新しい書類の束が置かれた。


「明日御発布(ごはっぷ)の、教会への寄付増額の御名義、こちらに署名を」


侍女が涼やかに微笑む。


「世継ぎを産んだ直後のお名前は、もっとも(とく)が高く、民が安んじます。()()()()()()()として、初めての御務めにございます」


羽根ペンを、差し出された。


産後、半日。


下腹は脈を打って痛み、指は震え、視界は二重に揺れる。


それなのに、誰一人、これをおかしいとは言わなかった。


ペン先が、紙に触れた。


震える手で、一字ずつ、自分の名をつづる。


──ミリア・ロウ。


「結構でございます。さすがは()()()()()()()、御立派な御名にございます」


侍女が、うやうやしく書類を引き取った。


ミリアは、つかれた頬に、それでも品のいい微笑みを返してみせた。


──馬鹿にしているの?


紙の上でだけ「ミリア・ロウ」を書かせて、口を開けば「世継ぎ様の母君」。都合のいいときだけ、名前を引っぱり出すのね。


──わたくしは、ミリアよ。「世継ぎ様の母君」なんていう名前の女じゃない。


そう言ってやりたいのを、花のような笑みの裏に、そっと畳んで仕舞った。


***


夜。


寝室は、しんと静かだった。


別棟は、遠い。どれだけ耳を澄ましても、息子の泣き声は聞こえない。


ミリアは両腕を、自分の胸の上で重ねた。


少し前まで、ここに重みがあった。腹を()くようにして出てきた、ぬくもりの塊が。


頬に触れた、その感触も。


抱いたのは、たった数十秒。


ミリアは、暗い天井を(にら)みつけた。


花のような微笑みは、もうどこにもない。歯を食いしばった(おに)の顔だけが、闇に浮いていた。


***


同じ夜。大公国(たいこうこく)、執務室。


ロザリンドは最後の書類に決裁印を落とし、ペンを置いた。今日のぶんは、これで片づいた。


「閣下、本日はここまでで」


「ああ」


ルーカスは執務机の向こうで、紅茶のカップに口をつけていた。窓の外は、すっかり夜。


「祖国から、また使者の問い合わせが」


「来春までの面会は受けません、と返してください」


「承知した」


それで終わりだった。


小さく伸びをして、椅子から立ち上がる。廊下を歩きながら、ふと北の空を見上げた。


星が、よく見えた。


「……アルバートのほうも、晴れているといいわね」


理由のない独り言。もう、自分とは何の関係もない空のことだ。


冷たい夜気が、頬に心地よかった。


同じ夜空の下で天井を睨みつける者がいるとも知らず、ロザリンドは穏やかに目を細め、自室の扉を開けた。


***


そのころ祖国では。


ミリアの寝室の窓から、別棟の方角に、灯がひとつともった。


夜の授乳(じゅにゅう)のための灯だった。


別の女の手で、別の女の腕の中で、ともされた灯。


ミリアは寝台の上から、その灯を、ただ見ていた。


──いいわ。今だけよ。

──私は聖女。神に選ばれた、成功を約束された人間。こんなもの、すぐに好転するに決まっている。

──少しつまずいただけ。本当の私の居場所は、こんなところじゃないわ。


根拠は、どこにもない。それでも、そう信じることだけが、いまのミリアにできるすべてだった。


別棟の灯は、夜中になっても、消えなかった。


産んだ腕から、ぬくもりがすぐ連れ去られる——あの切なさに胸が締めつけられた方は、【泣ける】を。あの夜のあなた自身へ。北の国で、同じ夜空を穏やかに見上げる人がいる。その対比に気づいたら、【いいね】も。

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