沈む船は、軽い者から
「お、お待ちください、ロザリンド嬢……それは、いくらなんでも」
「卿、これは私の取り決めではございません」
ロザリンドは静かに首を振った。
「就任にあたって、雇用主であるヴェルナント大公閣下が提示なさった条件ですわ。労働者である私が、勝手に変えられるものではございません」
そして、ほんの少しだけ、視線を斜め後ろに流した。
そこに立っていた長身の男──ヴェルナント大公ルーカスは、表情ひとつ動かさないまま、口を開いた。
「条件は、変える気はない」
低い声が、間に落ちた。
「むしろ──祖国の貨幣が、あの落ち方だ。崩落も近い。上方修正する余地があると考えていたところだ」
「じょ、上方修正」
「三倍が妥当だろう、と」
ルーカスは、書類を一枚、机の上に滑らせた。
「事務局に、すでに試算させてある」
(閣下、容赦ありませんわね)
ロザリンドは、心の中だけで微笑んだ。
ルーカスの試算は徹底的に合理的だ。今、特使の頭の中で、三倍という数字が祖国の歳入と並べられている。
並べたところで、答えは出ない。祖国はもう、払えない。
ロザリンドが抜けてから、関税収入は二割減。貨幣の信用は三段階下落、貴族の脱出も始まっている。サザーランド卿が今ここに膝をついているのは、その崩落の最終段で投げ込まれた藁束だからだ。
その藁束に、ロザリンドは、丁寧に、もう一度、頭を下げた。
「ご足労、痛み入りますわ」
「ロザリンド、嬢……」
「お断り申し上げます」
***
特使は、しばらく、動けなかった。
膝をついたまま、絨毯の毛足を見つめていた。
それから、震える声で、最後の一手を差した。
「陛下も、王太子殿下も、貴女様のご功績は、深く認めておいでです」
ロザリンドは、瞬きをした。
それから、ほんの少しだけ、本気で、笑った。
「認めておいで、といいました?」
「は、はい」
「では、お言葉ではなく──行動で、示していただけますわね?」
特使が、息を呑んだ。
「当時の予算書、税制改正案、外交白書。あれをぜんぶ書いたのは、私ですわ。私の名前で、史書に載せ直してくださいまし」
特使は、答えられなかった。
──田中律子の前世。「君には本当に助けられているよ」と、上司はいつも言った。そのくせ、給料も、肩書きも、最後まで一度も上がらなかった。
そう言われるたびに飲み込んできたその一言を、ロザリンドは今、面会の間の真ん中で、はっきりと声に出した。
「言葉ではなく、行動で示さなければ、誰もついてきませんわよ」
***
退出した特使の足音が、廊下の遠くで途切れた。
アンナが、長く、息を吐いた。
「ロザリンド様、その、本当に……お見事でしたわ」
「あら、見事なのは閣下の契約書ですわ」
ロザリンドは書類束を整えながら、平然と返した。それから、ふと、傍らの男を見上げた。
「閣下。三倍に上方修正は、いつから?」
「先週から」
「ご相談、いただいておりませんが」
「労務管理上の判断だ」
ルーカスは、書類に視線を落としたまま、わずかに口角を動かした。
「君の業務量が、また増えそうだったから、な」
(業務量?)
ロザリンドは、一瞬、止まった。
業務量が増える──たしかに祖国からの圧力が高まれば対応書類は増える。なるほど、合理的な先手。労務管理として、極めて正しい。
(さすが閣下、行き届いていらっしゃる)
ロザリンドは、深く頷いた。
それ以外の解釈は、彼女の中には、ない。
斜め後ろで、アンナだけが、額を押さえて天井を仰いだ。
***
明朝、サザーランド卿の馬車は国境を越える。
その先で、祖国は、自分の重さに耐えきれず、自分から沈み始める。
──そして、沈む船は、最後に、一番軽い者から海に投げ捨てる。
「ぜんぶ私の名前で書き直して」の痛快に【笑える】、見えない溺愛の「五倍上方修正」にきゅんとしたら【にこにこ】を! ★ひとつで、沈む船がもう一段かたむきます。




