慰謝料は、貴国を潰す額でよろしいかしら?
「──ロザリンド嬢。どうか、祖国へ、お戻りいただきたい」
特使の声が、面会の間に落ちた。
絨毯の上で、白髪の老臣が片膝をついている。アルバート王国の外務卿、サザーランド伯。ロザリンドが幼い頃から王宮で見かけた顔だ。
──前世風に言えば、定年間際の取締役。
「陛下も、王太子殿下も、心からお詫び申し上げると──」
ロザリンドは、軽く首を傾げた。
「お詫び、ですか」
「は、はい。先の婚約破棄は、若き殿下の早計であった、と」
「あら」
「国王陛下のお名において、撤回のご意思を……」
ロザリンドは、ふっと、息を吐いた。
笑ったのではない。聞こえた言葉の意味を、もう一度、頭の中で並べ直しただけだ。
***
並べ直してから、彼女は手元の書類束を、軽く指で叩いた。
「サザーランド卿。ひとつ、確認させていただいてもよろしくて?」
「な、何なりと」
「婚約破棄を撤回する、というのは──」
ロザリンドの声は、終始、平らだった。
「私に、再び王太子妃の席に座れ、という意味でいらっしゃる?」
「左様にございます」
「辞めた職場に、半年経ってから『戻ってきて』と言う、という意味で?」
特使は、虚を突かれたように、瞬いた。
異国の言い回しを、咄嗟に飲み込めなかったのだろう。
ただ、傍らのアンナだけが、ぴくりと肩を震わせた。主の口から漏れる前世の社畜口調を、最近ようやく聞き分けられるようになっている。
***
(あー……あの王太子、結局、ひとりじゃ何にも片付けられなかったのね)
ロザリンドは内心で、軽く嘆息した。
前世の田中律子が、退職して半年後にかかってきた一本の電話を、思い出した。
> 『田中さん、悪いんだけど、引き継ぎの件で少しだけ来てくれない? 君が書いた資料、誰も読めないんだよ』
──基礎的な知識があれば、短時間で読めるよう、簡潔に整えて置いてきた。
読めないのは、行間を読むだけの知識が、そちらにないからだ。
そして当時の田中律子は、咄嗟に、「いえ、もう無理です」が言えなかった。
罪悪感で半休を取って職場へ行き、一時間で済むはずの説明が三日に伸びた。無償で働かされて、帰り道、駅のホームで膝が震えた。
──あの時の私に、見せてやりたい。
(今度こそ、私は、ちゃんと、お断りいたしますわ)
***
「サザーランド卿」
ロザリンドは書類束の中から、一枚を抜き出した。
「ご足労いただいたところで、まずは事務的なご説明をさせてくださいませ」
「は、はい」
「私、現在、ヴェルナント大公国の経済顧問として、両国間で整えられた枠組みの下に就労しております」
覚書の写し。封蝋。署名──ふたつ。
「第三条、干渉条項」
ロザリンドはそこを、指の腹で示した。
「貴国が本覚書に違背して、私の雇用契約に干渉なさった場合──大公国に生じた損害の補填は、すべて署名国たるアルバート王国の負担となります」
「……ふ、ふたん」
「補填額は、別紙算定書の通り。──貴国の財政では、絶対にお支払いになれない額に揃えてございますわ」
特使が、息を呑んだ。
膝をついたまま、ぎ、と絨毯を握りしめる。その手の甲に、老いた血管が浮いていた。
***
ロザリンドは、卓上の覚書を、ゆっくりと裏返した。
「卿のお目に、もうひとつ、お入れしておきますわ」
「……これは」
署名面。並ぶ署名は──ふたつ。
ヴェルナント大公、ルーカス・ヴェルナント。
そして、アルバート王国宰相、エルヴィン・ガレット。
特使の指が、自国宰相の花押の上で、止まった。
「ご記憶でございますか、サザーランド卿」
ロザリンドの声は、責めても憐れんでもいなかった。
「私の大公国行きが決まった、その数日後。──貴国宰相閣下が、ご自身の花押で、ご署名くださったものでございます」
「……」
「第二条、本人の身柄返還を要求しない。私の雇用契約には介入しない。──そして、先ほどお読みした第三条」
ロザリンドは、覚書の写しを、特使の膝の前に、そっと置いた。
「つまり、本日の卿のご来訪そのものが、第三条に該当する『干渉』に当たる、ということでございますわ」
特使の喉が、声にならない音を立てた。
「対価として貴国がお受け取りになった優遇枠と、私への公式照会権──そのご署名の対価でございます。本日のご要請は、お受けすれば、宰相閣下のご署名を、貴国側からお破りになる行為。──宰相閣下のご出身が、どのご派閥かは、卿のほうがよくご存知でしょう」
膝をついた老臣の、肩の線が、わずかに、落ちた。
たった一行で相手の理屈を裏返す覚書に胸がスッとしたら【びっくり】、社畜口調にニヤッとしたら【笑える】を! ★は彼女の論破へのご祝儀がわりに。




