辞めた職場から、半年後に頭を下げに来た
「──違約金は、祖国の財政では、絶対に支払えない額」
まだ誰にも告げていないその一文を、ロザリンドは執務机の上で、一度だけ、口の中で転がしてみた。
七日後の朝。
大公国の正門に、見慣れない紋章をつけた馬車が一台、ゆっくりと滑り込んできた。
走り寄った門衛が、覚えのある紋様に一瞬、足を止める。
──アルバート王国、王家直属の特使旗。
馬車から降りた老人は、見るからに疲弊していた。旅装の埃を払うのも忘れ、最初の一言は、案内役の侍従にではなく、空へ向かって落ちた。
「……ようやく、着いた」
その声を、控えていたアンナが冷ややかに聞き取り、業務日誌の隅に短く一行を書き加えた。
「祖国特使、到着。──疲労が顔に出ている」
***
執務室。
ロザリンドは、机の上に並べた三枚の書類を、もう一度上から下に確認していた。
一枚目、両国間覚書の写し(大公国とアルバート王国の署名済み)。
二枚目、覚書の干渉条項と補填算定書。
三枚目、祖国アルバート王国の最新の国家予算試算(諜報網経由)。
ペン先で、三枚目の末尾に小さく赤い丸を付ける。
(祖国の財政では、絶対に支払えない額)
口の中で、ほんの少し、笑った。
前世の田中律子が、ついに出せなかった書類は、たった一枚──辞表だった。
同僚が一人、また一人と辞めていくたび、その分の仕事だけが律子の机に積み上がっていく。負う責任は増えていくのに、給料の額は、一円も変わらない。
それでも「君が抜けたら、現場が回らない」と引き止められると、責任感の強い律子は、どうしても辞表を出せなかった。
あのときの自分に、今のこの机を見せてやれたら。
(律子、立場って、書類で変わるのよ)
胸の内側で、ひそやかに呟く。
書類の一枚目──覚書の署名欄に、ヴェルナント大公ルーカスの筆跡と、祖国宰相エルヴィン・ガレットの花押が、並んで残っている。
***
その時、ノックの音がした。
「ロザリンド殿。──入る」
返事を待たずに、扉が開く。普段の閣下らしくない入り方だ、とロザリンドは内心で目を瞬かせた。
入ってきたルーカスは、ロザリンドの机の前まで来ると、書類を見もせずに言った。
「面会は午後二時。場所は北の応接間。同席は、君と俺、書記官二名、衛士二名」
「承知いたしました」
「衛士は、君の側に立てる」
ロザリンドはペンを置いた。
「閣下、特使は老齢の文官ですわよ。武力的な危険は──」
「衛士は、君の側に立てる」
二度目の声が、一度目より半音低かった。
ロザリンドは口を一度開けかけ、それから素直に頷いた。
「では、そのように」
(労務管理として、こちらの守りを固めつつ、面会者には心理的な圧をかける布陣。交渉を有利に運ぶおつもりですわね。さすが閣下)
ロザリンドの中で、その配置はあくまで交渉戦術の合理として処理される。
ルーカスはそれを否定も肯定もせず、机に置かれた三枚の書類に、ようやく視線を落とした。
「準備は、できているようだな」
「ええ、もちろん。両国間覚書は、署名した両国を等しく縛るための文書ですもの。こういう時のためにあるんですのよ」
低く、短い笑い声が、ルーカスの喉の奥で鳴った。
ロザリンド以外の人間が聞いたら、それを笑い声だと認識できなかったかもしれない。
***
午前十時。
大公国の応接間の隣室で、書記官が祖国特使の控えを案内していた。
老特使は、待たされる間に、控え室の窓から大公国の街を眺めていた。
整然と区画された商業区。新しい港から伸びる白い道。市の立った広場では、子供たちが、見たこともない種類の硬貨を弾いて遊んでいる。
──新貨だ、と老特使は気づいた。
ロザリンド・エイベルが設計し、ルーカス・ヴェルナント大公が裁可したという、あの。
老特使の指先が、わずかに震えた。
机に置かれた紅茶のカップに、彼は手を伸ばせなかった。
***
応接間。
午後二時、五分前。
ロザリンドは、自分の席に着く前に、もう一度、三枚の書類の順序を確認した。
一、両国間覚書。
二、干渉条項と補填算定書。
三、国家予算試算。
順序は、間違えない。
──順序を間違えなければ、結論は、もう、書類の中にある。
扉が開く音がした。
特使を案内する書記官の足音と、その後ろに続く、もうひとつの、ためらいがちな足音。
ロザリンドは静かに顔を上げた。
入ってきた老特使の顔を、見覚えがあった。
幼い頃、父の執務室で書類の使い走りをしていた頃、何度か挨拶を交わした財務官。穏やかで、誠実で、自分の手柄を黙って上に差し出してしまう癖のある人だった。
──そう、彼の名で出した試算が、ことごとく王太子の発案として奏上された時代があった。
胸の奥で、前世のフラッシュバックがひとつ、軽く瞬いた。
会議室の白い天井。長机の向こうから、一枚ずつ、順序通りに滑らせて寄こされた、三枚の紙。契約の満了日。更新しないという通知。最後に、署名欄。その順序で並べられてしまえば、反論の余地は、どこにもなかった。
(今日は──こちらが、順序通りに提示する番ね)
ロザリンドは、ゆっくり立ち上がって、礼の角度を完璧に作った。
「──ようこそ、ヴェルナント大公国へ」
老特使の顔から、わずかに、血の気が引いた。
横で、衛士の靴音が一歩、ロザリンドの側へと近づく。
応接間の壁の時計が、午後二時を打った。
──祖国を救う最後の使者は、自分が助けを求めに来たこの場所で、引導を渡されることを、まだ知らない。
辞めた職場が半年後に頭を下げに来る——あの痛快に「これは効く」と背筋が伸びたら、【びっくり】か【いいね】を! ★は午後二時の開戦への景気づけに。




