執務室に戻る後ろ姿
朝の執務室。
アンナが報告書を読み上げる声から、いつもの彩りが抜けていた。
「ノースランド公国使節、本日午前出立」
ペンを止めずに、ロザリンドはひとつ頷く。
「南方都市同盟代表、明朝出立」
もうひとつ頷く。
「東方リアトス王国王弟──体調不良のため、即日帰国を希望」
「あら、お気の毒に」
「北方ヴァルダー王国は、滞在延期の打診を、昨夜のうちに、自ら撤回されました」
カリ、と羽根ペンが一拍止まる。
「ロザリンド様、これで──今月の縁談打診、全件、終了しました」
アンナは一拍置いて、付け加えた。
「最後はホーゲル伯でした。けさ、自ら撤退の口上を、執務室の前で述べていかれましたわ」
ペンを動かす指が、ほんのわずか、止まる。
──ホーゲル伯。三月前の社交場で、葡萄酒の杯を傾けながら、よく通る声で笑っていた男。
『公爵令嬢といっても、所詮は婚約破棄された出戻り。情けで娶ってやってもいい』
その場に居合わせた使用人の報告書は、ロザリンドの執務机の引き出しに、今も静かに眠っている。
その男が、今朝、額に汗を浮かべて、退路の口上を読み上げていったらしい。
「あら」
ロザリンドはようやく顔を上げた。
「ずいぶん日程が空きそうね」
「……はい」
「閣下のお手腕で、随分助かりますわ。次の貨幣改革の試算、前倒しできます」
アンナは何か言いかけて、結局、深く一礼するだけにとどめた。
***
(クラルク王国のお戻りを皮切りに、ドミノですわね)
ロザリンドは試算表に視線を戻しながら、軽く感心していた。
クラルク王国第二王子の急遽帰国──あれが起点だった。それから三日。各国の使節が次々と「本国の事情で」「健康上の理由で」「予算の都合で」と、理由をつけて去っていく。
理由は、それぞれ違う。
──ただし、すべてに共通点があった。
ルーカスが事前に、各国の「経済的に無視できない案件」を、一枚ずつ机に並べて見せていたこと。新航路の優位性、関税の見直し時期、自国港湾の遅延予測。資料はどれも、徹底的に合理的だった。
帰らざるを得ない理由を、相手に自分で発見させるやり方。
(閣下らしい)
ロザリンドはペンを走らせながら、心の底から感謝していた。
(業務上の無駄な交際時間を、これだけ綺麗に削減なさるなんて。事務官の総労働時間に換算したら、月に三百時間は浮きましたわね)
労務管理として、極めて合理的。
それ以外の解釈は、ロザリンドの中にはない。
***
午後、別の使者が大公国に到着した。
アンナが青ざめた顔で執務室に飛び込んできた。
「ロザリンド様、閣下。──祖国アルバート王国の、正式な特使でございます」
ルーカスが書類から目を上げた。
「親書は」
「こちらに」
封蝋には、見慣れた紋章。両国の経済関係改善について、至急の協議を求める──と、表書きには記されている。
アンナの手が震えていた。
「閣下、これは──」
「予定通りだな」
ルーカスは親書を一瞥して、机の隅に置いた。それから、ロザリンドの方を、見もせずに言った。
「ロザリンド殿。来週、面会の場を設ける。同席を頼む」
「承知いたしました」
ロザリンドは即答してから、ふっと、口角を上げた。
***
(沈み始めた船から、ようやく救命艇の手配が来ましたわね)
軽快に、しかし冷ややかに、心の中で呟く。
前世の私が、職を離れて半年後、元の勤め先から「ちょっとだけ戻って手伝ってくれない?」と連絡を受けた、あの感覚。
引き継ぎ資料は、全部置いてきた。
後任が読めないなら、それは雇った側の問題だ。
(お断り申し上げます、と返信したいわ)
ロザリンドは胸の中で呟いて、すぐに首を振った。
「いえ、それは来週の閣下のご判断ですわね」
アンナが、ぽかんと主の顔を見ていた。
***
夕暮れの廊下。
ロザリンドは決裁済みの書類をアンナに渡しながら、明日の朝の予定を読み上げていた。
「八時から関税推移の検証、九時から事務局会議、十時から──」
「ロザリンド様、もう少しお休みになっては」
「あら、こんなに業務に集中できる環境、前世では──いえ、これまでの私では絶対に手に入りませんでしたのよ」
廊下の窓から、長い影が差し込んでいた。
その影の中を、執務室へ戻っていく長身の後ろ姿があった。
誰にも振り返らない。
社交場に詰めかけた他国の令嬢たちの誰一人にも、目もくれなかった男。廊下ですれ違った数名の女官の挨拶も、わずかな目礼だけで切り捨ててきた男。
扉が閉まる直前、ほんの一瞬。
その視線が、書類を抱えるロザリンドの後ろ姿を、捉えた。
***
──3年前から、ずっとそうだった。
視線は、いつも一人だけを追っている。
抽斗の奥に押し込まれた紙束。麻紐。一月十四日の壁際の覚書。あの夜から、ずっと。
彼女は、気づかない。
気づかないまま、彼女自身の仕事に向かっていく。
それでいい、と大公は思った。
今は、まだ。
扉が、静かに閉まった。
***
執務室に戻ったロザリンドは、机の上に新しい紙を広げた。
来週の祖国特使への対応資料。
ペン先が、紙に触れる。
「両国間覚書の第三条、干渉条項……補填額算定……祖国の財政では、絶対に支払えない額」
呟きながら書き出した数字を眺めて、ロザリンドはふと、笑みのようなものをこぼした。
(さて、ちゃんと、お断りの準備をしておきましょう)
机の隅で、紅茶が、ゆっくり冷めていく。
廊下の向こうの執務室の扉は、もう、閉まっている。
明日の朝、また、焼き菓子の小皿が、いつもの場所に置かれているだろう。
ロザリンドは、気づかないまま、関税表の次の頁をめくった。
祖国の使者が大公国の門をくぐるまで、あと、七日。
彼女が、自分の意志で祖国に「お断り申し上げます」と告げる日まで、あと、七日。
求婚ドミノ全件終了と祖国の打診を冷ややかに見送る痛快さに沸いたら【びっくり】か【いいね】、最後の「3年前から、ずっとそうだった」にじんと来たら【泣ける】を。★が増えるたび、来週の祖国対決が早足で近づきます。




