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うちの国の利益のために、ね

朝、執務室の続きの間。


窓辺に立ったルーカスの背中を、朝日が薄く縁取っていた。秘書官アンナが書類の束を抱え、扉のすぐ内側で姿勢を正す。


隣室との扉は、半開きのままだ。


ロザリンドはそこで、もう三十分前から書類仕事に没頭している。ペン先が紙を擦る、規則正しい音が、続きの間にまで届いている。


「閣下。クラルク王国第二王子の滞在予定ですが」


「読め」


「本日午後の謁見後、三日間。歓迎晩餐、視察、最終日に通商協定の覚書調印を希望、とのこと──」


アンナの声が、途中で止まった。


主の横顔が、振り返らないまま、わずかに動いたからだ。


「アンナ」


「は、はい」


「あの男、もう国に戻したほうがいい」


アンナは、息を呑んだ。


ルーカスの口角が、ほんの一ミリ、上がっている。笑顔の輪郭だけを、機械的に作っているような、奇妙な角度の表情だった。


「──()()()()()()()()()()()()()


声は、いつもより半音、低い。


アンナは、視線をそっと隣室の扉の方へ流した。


ペン先の音は、止まっていない。


***


同じ瞬間、隣室。


ロザリンドはペンを止めた。


ただし、それは閣下の声が聞こえたからではない。書きかけの試算の、最後の桁が合ったからだ。


紙の隅に、軽くメモを足す。


──「クラルク:早期帰国誘導」。


(閣下のおっしゃる通りだわ)


ロザリンドは細い指で、こめかみを軽く押さえた。


(クラルクの新港湾は、現場で決裁できる王族が常駐しないかぎり、回収の見込みが立たない案件。その王族ご本人をこちらで引き留めていては、遅延が積み上がるばかりだわ。お帰りいただいて陣頭指揮を執っていただくのが、双方にとって合理的ね)


合理的、と頭の中で繰り返すと、不思議と肩のあたりがゆるんだ。


数字に潜っているあいだ、こういう「人の動き」の側にまで、いつも手が回らない。


前世──社畜だったころは、それで何度も足をすくわれた。自分が気づかなかった一手は、誰も拾ってはくれない。回り回って失敗だけが残り、その尻拭いは決まって、いちばん下にいる自分の机に積まれた。


今は、自分が見落としかけた穴を先回りで塞いでくれている。


(閣下、本当に合理的でいらっしゃる)


ペンを握り直して、ロザリンドは次の桁に取りかかった。


隣室の主が、その同じ判断に、まったく違う温度を込めていたことを、彼女は最後まで知らない。


***


午後、謁見の間。


クラルク王国第二王子は、椅子に深く座り直して、まずは自分の家系の話を始めようとした。


ルーカスは、それを許さなかった。


「失礼ながら、殿下。本日は、貴国からいただいた出資(しゅっし)のお打診について、こちらの結論を先に申し上げます」


机の上に、一枚の図面が広げられる。


「貴国の新港湾建設計画。我が国の諜報網(ちょうほうもう)が独自に把握した、最新の進捗試算です」


王子の眉が、ぴくりと動いた。


「……これは」


「結論から申し上げます。──この計画へ我が国が出資することは、見送らせていただきます」


「な……っ、なぜだ」


「理由は、ただ一点」


ルーカスは、図面の竣工(しゅんこう)予定日を、指先で軽く叩いた。


「現場に、最終決裁を下せる王族が、常駐しておられない。資材の調達も、職人の手配も、判断待ちで止まる。現状の指揮系統では、三年内の竣工は困難かと」


「ま、待たれよ。それは──」


「遅延は、そのまま出資側の損失になります。年間およそ百二十万クラルク貨。向こう三年、毎年」


王子の額に、薄く汗が浮く。


ルーカスの声色は、終始、穏やかだった。


商談の声色、と言ってもいい。


「これだけの遅延損失を抱える案件に、我が国は資金を入れられません。──ただ」


一拍、置いた。


「逆に申せば、殿下ご自身が帰国され、現場で陣頭指揮を執られるのであれば、話はまったく変わります。判断の遅れが消えれば、損失も消える。そのときは、我が国も喜んで、出資を前向きに検討いたしましょう」


完璧に、合理的だった。


非の打ちどころが、ひとつもない。


王子は、しばらく沈黙し、それから喉の奥で短く咳をした。


「……急ぎ、帰国の準備をさせよう」


「賢明なご判断と存じます」


ルーカスは、礼の角度を完璧に作って頭を下げた。


その口角の上がり方は、隣室で見せたそれよりも、ほんの少しだけ、深かった。


***


廊下を抜けていく途中、クラルク王子は、向かいから歩いてくる銀髪の女性に気づいた。


書類を抱え、秘書官のアンナを伴ったロザリンド。


王子は反射的に足を止めかけた。せめて最後にひとこと挨拶を、と口を開きかける。


その視界の端から、すっと一枚の書類が差し出された。


「殿下。お発ちの前に、ご確認いただきたい出資協定の条項がございます」


ルーカスだった。


王子とロザリンドのちょうど中間、半歩だけ前に。書類を渡すための位置取りだったが、結果として、王子の動線は完全に塞がれていた。


ロザリンドは、すでに通り過ぎている。


「閣下からの伝言は?」とアンナに小声で確認する横顔。書類の数字に意識が戻っている、いつもの彼女だった。


王子は、書類を一枚受け取り、誰にともなく会釈をして、廊下を歩き去った。


その背中を、ルーカスは見送らない。


ただ、書類を渡す手の指が、一瞬だけ強く折れていた。


***


夜。


執務室。


ロザリンドが扉の前で、軽く頭を下げた。


「閣下。本日のクラルク対応、見事でしたわ」


ルーカスは書類から目を上げない。


ペン先を一行進めてから、ようやく、短く返した。


「当然のことをしたまでだ」


ロザリンドは小さく笑って、自分の机に戻っていく。


その後ろ姿が扉の向こうへ消えてから、ルーカスはようやくペンを置いた。


窓の外、大公国の夜の街並みに視線を投げて、ほんの一度だけ、口の中で繰り返す。


──当然のことをした。


それ以上は、地の文にも、出さなかった。


***


翌朝、社交場の使節控え室。


入れ替わりに到着した他国の令嬢たちが、扇の陰でひそひそと、ルーカスの姿を盗み見ていた。


挨拶を試みる者が、三人。


「閣下、お久しぶり──」


「失礼」


「閣下、本日のお茶会に──」


「予定がある」


「閣下、よろしければ──」


「アンナ、次の試算を」


三秒、三秒、三秒。


きっかり同じ尺で、会話は終わっていく。


ルーカスは廊下の奥、ロザリンドの試算メモが置かれた机の方へ、迷いのない歩幅で歩いていく。


令嬢たちの扇の動きが、止まる。


そして、止まったまま、しばらく動かなかった。


***


その夜、アンナは秘書官室で、当日の業務日誌を閉じた。


「閣下への縁談打診:本日付で、残三件」


ページをめくり、もう一行、書き足す。


「ロザリンド様への縁談打診:本日付で、五件──いずれも、本日中に処理済み」


呟いて、ペンを置く。


閣下宛ての三件は、手つかずのまま積まれている。返事を書くどころか、封すら切られていない。放っておけば、そのうち相手が諦める──とでも思っているのだろう。


けれど、ロザリンド様宛ての五件は、まるで違った。届いたその日のうちに、ひとつ残らず片付いている。どこかの商会の不渡り、どこかの家門の資金繰り、どこかの縁組みの白紙化──理由はいつも、見事なまでに経済的だった。放置ではない。一件ずつ、的確に、潰されている。


そして、当のロザリンドは、自分に縁談が来ていたことすら、たぶん知らない。


アンナは小さく息を吐いて、ふっと笑った。


──ご自分の縁談は封も切らないくせに。ロザリンド様の分だけは、その日のうちに、経済ごと。


机の引き出しを開け、明日の処理予定リストを取り出す。一番上の項目に、自分の字で書かれた一行があった。


「ノースランド公国使節、滞在延長の打診あり」。


表向きは、商談の延長。けれど、あの使節がこの国にしつこく留まりたがる本当の理由を、アンナはもう察している。──狙いは、ロザリンド様だ。


アンナはその行を見つめて、しばらく考えてから、もう一度笑った。


──この件も、明日の朝、閣下のお耳に入れた瞬間、たぶん経済的に片付くのだろう。


ペンを取り直して、項目の隣に小さくメモを足す。


「要・経済的論理での処理」。


それから日誌を閉じ、灯りを落とした。


数字だけで王子を完璧に追い返す痛快さに胸がすいたら【びっくり】、この独占ぶりに「いいぞ」と思ったら【いいね】を! ★は潰れていく縁談へのご祝儀がわりに、ひとつだけ。

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