第一の客人
「クラルク王国第二王子、ヴィルヘルム殿下、ご来訪──通商視察団の団長としての名目だそうです」
朝、アンナが報告書を読み上げる声に、ロザリンドは羽根ペンを止めた。
(あの方、結局いらしたのね)
昨日、ルーカスが暖炉の前で一通だけ手を止めた封蝋を思い出す。あれが、クラルクの紋章だった。
「歓迎晩餐会の席次、いかがいたしましょう」
「閣下のご判断に従いますわ」
ロザリンドは試算表に視線を戻す。新航路の関税試算は今日が締切。客人の応対より、こちらが先だ。
ところがアンナは、なぜか席を立たない。
「あの、ロザリンド様。ヴィルヘルム殿下からのご指名で、ロザリンド様の隣席を、と」
「あら」
ロザリンドは少しだけ眉を上げた。
(経済顧問の隣に座りたい、ということは、出資交渉の口火をその場で切るおつもりかしら。気の早いこと)
「承知いたしましたわ。試算表は晩餐前に仕上げます」
部屋の奥で、ルーカスが書類をめくる音が、わずかに乱れた。
***
晩餐会場は、ヴェルナント城の南翼。長卓に並ぶ銀器、揺れる蝋燭、楽団の控えめな弦。
ヴィルヘルム王子はロザリンドの隣に着くと、五分間、自分の家系の話をした。
曽祖父の代から、王家の血統と、自領の鉱山と、戦勝記録と、それから乗馬の趣味。
(この時間で、関税表を三枚は引けたわ)
ロザリンドは内心でため息をついた。前世、意味のない長話に削られた時間の感覚が、こんなところで蘇る。
「──しかし、ロザリンド嬢」
王子がワイングラスを傾け、こちらに身を寄せてきた。
「あなたほどの才媛が、こんな北の国の経理仕事に埋もれるのは、いかにも惜しい」
ロザリンドは、口元のナプキンをきちんと折り畳んでから答えた。
「埋もれているつもりはございません。給与は祖国時代の十倍ですので」
王子は意味を取りそこねたまま、白い歯を見せて笑った。
「謙遜なさる必要はない。私の国でなら、あなたは伯爵夫人としてもっと相応しい場所に置かれる」
(伯爵夫人。それは、自分の名前を消すための呼称ね)
ロザリンドは表情を変えなかった。前世で何度も浴びせられた言葉と、構造が同じだ。「うちの商会のほうがいい待遇を出せる」から「いっそ嫁に来ないか」へ繋ぐ、あの常套句。
「ご親切に。ただ、私の労働契約は──」
そこで、王子の指がふと持ち上がった。
ロザリンドの後れ毛に、伸びる。
その指先が、銀色の一筋に届く、ほんの一瞬手前──
ロザリンドの肩に、温度の違う手のひらが置かれた。
布越しに、低い体温が伝わる。
振り返らなくても、誰の手か分かった。
「閣下」
「ロザリンド殿」
ルーカスの声が、すぐ後ろから降ってくる。
「例の試算、今夜中に確認したい」
業務指示。ロザリンドは即座に椅子を引いた。
「承知いたしました」
立ち上がった彼女の肩から、その手が、名残惜しいほどゆっくり離れていく。──いや、ロザリンドはそうは感じていない。離れたものは離れただけだ。
王子の指は、宙で行き場を失い、ワイングラスの脚を掴み直した。
「失礼いたしますわ、ヴィルヘルム殿下。続きは──」
「続きは、ない」
ルーカスが、ロザリンドの言葉を引き取った。極めて短く、極めて平坦に。
王子の頬が、わずかに強張る。
ロザリンドはそれに気づかず、礼をして退出した。
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廊下は静かだった。
ロザリンドが歩調を合わせると、ルーカスは半歩前を進んでいた。
「閣下、お忙しいところ恐縮ですが、試算表はもう先週仕上げてございますわ。本日の数字と擦り合わせるだけでしたら、明朝でも──」
「いい」
「は?」
「今夜、確認したい」
短い。短いが、いつもの「業務上の必要」という前置きがない。
ロザリンドは少し考えてから、納得した。
(ああ、閣下も人使いが荒くていらっしゃること。でも、賃金に見合うのだから文句はないわ)
廊下を曲がる。
ルーカスは、ロザリンドの肩に置いた自分の右手を、一度、握り直した。
指先の感触が、まだ残っている。
(──危なかった)
胸の内で、一行だけ、地の文が落ちる。
(あと一秒遅ければ、あの男の指が、彼女に触れていた)
ロザリンドは半歩後ろで、すでに頭の中の試算表を開き直していた。
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執務室の扉が閉まる。
蝋燭が一本、燭台で揺れている。
「では、本日の数字を出しますわね」
ロザリンドが机に向かう。羽根ペンを取り、紙を広げ、何の疑念もなく仕事を始める。
ルーカスはその背中を一拍見つめてから、隣室のアンナを呼んだ。
扉の隙間から、低い声が漏れる。
「アンナ」
「はい」
「クラルク王国第二王子の滞在予定を確認しろ」
声が、いつもより、半音だけ低い。
アンナは無言で頷き、足音を消して下がっていく。
ロザリンドは紙の隅に、几帳面な数字を並べていた。
肩に残った温度のことを、彼女は──労務上の合図として、もう完全に処理し終えていた。
(明日は朝から関税の擦り合わせ。晩餐の続きに付き合うより、ずっと建設的だわ)
執務室の窓の外で、雪が、ほんの少しだけ降り始めている。
後れ毛に伸びた指の一秒手前で肩に置かれた手にときめいたら【にこにこ】、「あと一秒遅ければ」にぞくっとしたら【びっくり】を! ★ひとつが、あの一秒に間に合った彼への拍手に。




