求婚状の山
「ロザリンド様、これ、また増えています……」
朝の執務室。秘書官のアンナが、両腕で抱えきれないほどの書状の束を、机の端にどさりと積んだ。
封蝋の色がきれいに並ぶ。深紅、群青、若草、銀、金。各国王家の紋章ばかりが、朝の光の中で艶やかに並んでいた。
ロザリンドは試算表に書きかけの欄から顔を上げて、その小さな山を一瞥した。
「……まあ。賑やかですわね」
「賑やかとかの問題では、ええと、ですね」
アンナの声が裏返った。
***
ロザリンドは羽根ペンを置いて、上の一通を手に取った。
封蝋を解き、流麗な文字に目を走らせる。
「クラルク王国第二王子殿下より。生涯にわたる経済協力の打診──」
「ロ、ロザリンド様」
「ええ、自国の港湾建設に、うちから長期で出資してほしい、という案件ね」
ロザリンドは即座に手元の財政表を引き寄せ、頭の中でクラルク王国の歳入構造と回収年数の試算を始めた。
「クラルク王国は鉱物資源と織物が主軸。長期出資でしたら、出資比率の上限と、回収年数、それに為替リスクの分担条項を……アンナ、議事録用の用紙を一枚」
「いえあのそれ、出資の話ではなくてですね」
「ええ?」
ロザリンドは怪訝そうに眉を寄せ、書面の末尾を確認した。
「『貴殿との生涯の契約を熱望する』──ええ、長期契約の意気込みの常套句ですわ。祖国の商家でも見た言い回し。問題ありません」
「問題、あります」
アンナはほとんど泣きそうな声を出した。
ロザリンドはきょとんとして、首をかしげた。
「あら。私、何か読み違えました?」
「いえ、その、なんと申し上げますか……」
アンナは、続きを言うべく口を開いた。
開いて──そして、執務室の奥の机に座っているもう一人の人物の視線に気づいて、ぴたりと閉じた。
***
ルーカスは、書類から目を上げていなかった。
ただ、ペン先が、止まっていた。
アンナの背中を、薄氷の刃のような視線が、無言で押している。
──黙れ。
そう聞こえた気がして、アンナはひそかに息を呑んだ。
「……いえ、なんでもございません。ロザリンド様の解釈で、ええ、たぶん、それで合っております」
「合っておりますの?」
「合っております合っております」
「合っているならよろしいですわ」
ロザリンドはあっさり頷いて、用紙を引き寄せた。
「では、まずクラルク王国分の試算から。長期出資の前提条件として、両国の財政構造を……」
カリ、と羽根ペンが走り始める。
その背後で、ルーカスが静かに立ち上がった。
***
ルーカスは、机の端の山に手を伸ばした。
上から一通。
「──確認する」
「あ、閣下、それは」
アンナの語尾を待たず、彼はその一通を自分の机の引き出しへ滑り込ませた。鍵がかかる音。
二通目。
「これは私が処理する」
暖炉の前へ歩いて、開封もせずに脇の小卓に置いた。
三通目。
ためらわず、火に投げ入れた。
封蝋がぱちりと割れ、紙が縮れて、青い炎の色に変わって燃え落ちる。
アンナは見ないふりをした。
四通目、五通目、六通目。
封筒の差出人によって、彼の処理は変わった。引き出し行き、小卓行き、暖炉行き。三通に一通の割合で、書面が炎に消えていく。
ロザリンドは試算表に没頭していて、燃える紙の匂いに、一瞬だけ鼻を動かした。
「閣下、暖炉、煙が」
「古い書類を整理している」
「左様ですか。お忙しいところ、案件を引き取っていただいて恐縮ですわ」
ロザリンドは、心の底からの感謝を込めてそう言った。
(閣下も、ご自分の業務がおありですのに、宛先違いの郵便物まで仕分けてくださるなんて。なんて行き届いた上司かしら)
ペン先がふたたび走り出す。
ルーカスの手が、暖炉の前で、ほんの一瞬だけ止まった。
***
アンナは、震える指で、机に残った最後の一通を取り上げた。
差出人の封蝋を確認しようとして──気配を察したルーカスが、横から手を伸ばし、その封筒を受け取った。
普段ならそのまま暖炉に投げ込むはずだった。
けれど、ルーカスの指は、差出人の名の上で、止まった。
眉が、わずかに動く。
封蝋の紋章は、海峡対岸のある王家のもの。彼が、過去に一度だけ、外交の席で直接対峙したことのある男の家紋だった。
ルーカスは、その封筒を、燃やさなかった。
引き出しにも入れず、小卓にも置かず。
自分の上着の内ポケットに、無言で滑り込ませた。
それから、ごく低い声で、独り言のように呟いた。
「──これは、本人が来るだろうな」
アンナは、聞かなかったふりをした。
聞かなかったふりをしながら、心の中で、深い溜息をついた。
(ロザリンド様、ロザリンド様。閣下がご自分でお手にお取りになる差出人がいる、というのが、もう、その、ですね……)
(いえ、もうよろしいです。私は申し上げません)
(申し上げたら、たぶん、私が暖炉に投げ込まれます)
***
「アンナ、次の議題」
ロザリンドが、試算表の一枚目に大きく丸を打ちながら、顔を上げた。
「クラルク王国への長期出資、たたき台ができましたわ。閣下、午後にお時間いただけますか」
「いや」
ルーカスは即答した。
「クラルク王国への出資は、見送る」
「あら、なぜ」
「出資に見合う回収が、見込めない」
短い、いつもの調子の声だった。
ロザリンドは納得して、ペンを置いた。
「承知いたしました。では、クラルク分の出資試算は念のため保管しておきますわね。いつか必要になるかもしれませんし」
(けれど、本日中にまた別の打診が来るかもしれませんわね。先ほど三通目が届いていましたし。──いえ、閣下が処理してくださったのだったかしら)
ロザリンドは、自分の試算表に「クラルク:保留」とだけ書き込んだ。
その筆先のすぐ向こうで、ルーカスが自分の内ポケットに手をやり、封筒の角を、指先で一度だけ確かめた。
朝の光が、執務室の床に長く伸びていた。
来客の知らせが届くのは、その日の午後のことだった。
求婚状の山を「契約の常套句」と読み違えるすれ違いに笑えたら【笑える】、無言で一通を暖炉にくべる手つきにきゅんとしたら【にこにこ】を! ★は暖炉に一通くべるくらいの軽さで、ぽちっと。




