読まずに、お返しいたします
祖国の使者団は、二度、頭を下げた。
──二度目のほうが、前のめりだった。
サザーランド卿の馬車が国境へ向かったその同じ日の午後、入れ替わりのように、第二の使者団が大公国の門をくぐっていた。
謁見の間。
「では、本題に入らせていただきたく」
グレイ財務官が、額の汗を白い手巾で押さえた。
謁見の間の空気は、もう一度凍り直したあとだった。先刻、サザーランド卿に「お断り申し上げます」を伝えたばかりの長椅子に、ロザリンドは姿勢を崩さず腰を下ろしている。
ルーカスはその半歩後ろ、椅子に深く座ったまま、片肘を肘掛けに乗せていた。視線は使者団の方角を向いているが、誰の顔を見ているのかは、誰にもわからなかった。
「公爵令嬢たるあなたには、祖国法上、王家への奉仕義務がございます」
グレイの声が、ようやく事前に練ってきた台詞の調子を取り戻した。
「先刻のサザーランド卿の交渉とは別件として、祖国法上の身分義務により、経済顧問の地位を返上し、祖国にお戻りいただきたく」
「ふうん」
ロザリンドは、ふうん、と一文字だけ返した。
***
「ひとつ、確認させていただいてもよろしくて?」
「な、何なりと」
「祖国法上の、公爵令嬢の奉仕義務、と仰いましたわね」
「……は、はい」
ロザリンドは、ほんの少しだけ首を傾げた。
「私、エイベル公爵家から、正式に分籍済みですわ」
グレイの瞳孔が、見える距離で、ぐっと縮んだ。
「出国前に、父が手続きしてくれましたの。書類はお見せしますか?」
ロザリンドの脳裏に、ほんの一秒、あの日の書斎の光景が浮かんだ。
出立の前、父・エイベル公爵が、書斎の机の引き出しの奥から取り出した、封蝋のまだ新しい一葉。分籍証書だった。「万一のとき、祖国がお前を呼び戻す口実を一つも残さないでおいた。お前はもう、この家の令嬢ではない」と父は短く言った。あのとき、ロザリンドはただ「ありがとうございます、お父様」と頭を下げた。
書類は、執務室の鍵付き引き出しの奥にある。
「アンナ、分籍証書の写しをお見せして」
「すぐにお持ちします」
執務室と謁見の間は、走れば二十秒。アンナはほぼその時間で戻ってきた。封蝋つきの一葉が、グレイの前に滑り出される。
「ご確認くださいませ。祖国王立記録院の受理印、入っておりますわ」
グレイの顔から、はっきりと、血の気が引いた。
***
ルーカスがようやく口を開いた。
「公爵令嬢ではない者に、公爵令嬢の義務を課せるなら」
低い声だった。
「それは、祖国法ではなく、ただの恫喝だな」
グレイの首筋を、汗の一筋がはっきりと伝うのが、ロザリンドのいる位置からも見えた。
「た、大公閣下、それは──」
グレイが言いかけた弁解は、最後まで形にならなかった。代わりに、使者団の中ほどから、若い書記官が一歩、前へ進み出る。
「……それと、もう一件」
震える指が、一通の封書を取り出した。
「聖女様より、ロザリンド様への、私信でございます」
ロザリンドは封書を受け取り、封蝋に視線を落とした。
ミリアの個人印。差出は王宮の北棟。──開封しなくても、中身は半分わかる。
ロザリンドは封を切らずに、卓の上に静かに戻した。
「拝読は、お断りいたしますわ」
書記官が、ぴくり、と肩を震わせた。封を切られることのないまま卓に伏せられた封書と、「お断り」という一語とのあいだに、取りつく島はなかった。
ロザリンドは、その空白を、誰にも詫びなかった。
「ご私信に、国家間の公的効力はございません」
「……は」
「個人宛の私信は、個人として受け取り、個人として処理いたします。祖国の交渉材料ではございません」
「し、しかし、聖女様ご本人の──」
「ご本人のご署名のある、公的な依頼書は、お持ちですか」
グレイは、答えられなかった。
***
ロザリンドは、卓の上の封書を、指の先で、書記官のほうへ押し戻した。
「個人宛の私信ですので、こちらでお預かりする筋合いもございません。お持ち帰りくださいませ」
書記官が深く一礼し、封書を恭しく取り上げた。
「お返事は、明確に──」
ロザリンドは姿勢を正した。
「お断り申し上げます」
分籍証書の先回りで身分義務を音もなく崩す手際に「親、いい仕事した」と頷いたら、【びっくり】か【いいね】を! ★は、開かれなかった封蝋への一票として。




