表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

36/67

王宮の朝、空席の隣

妃殿下(ひでんか)候補、もう少しお顔をこちらへ」


鏡台(きょうだい)の前。三人がかりで髪を()われながら、ミリアは小さく頷いた。


「妃殿下候補」「アルフレッド様の」「未来の王太子妃(おうたいしひ)様」


侍女たちの口から、今朝もミリアという三文字は一度も出てこない。


(ミリア、と呼んでくれる人は、もうこの城のどこにもいない)


鏡の中の自分が、薄い()みを返してくる。


(でも、それは光栄なはずよね。だってあと少しで、私は本当に「王太子妃殿下」になるんだから)


医師(いし)の言葉が、まだ耳の奥に残っていた。


懐妊(かいにん)でございます、妃殿下候補。


世継(よつ)ぎを、宿している。


それを、まだ誰にも告げていなかった。


侍女が髪に(くし)を入れる手を止めて、おずおずと尋ねてくる。


「本日の朝食の献立(こんだて)寝具(しんぐ)の交換、王太后(おうたいごう)陛下の茶会(ちゃかい)でお出しするお菓子の選定(せんてい)、いずれも妃殿下候補のご裁可(さいか)を仰ぐようにと、家政長(かせいちょう)から」


「……それは、私が決めるの?」


(きさき)たるもの、当然ご存じでいらっしゃいますでしょう」


侍女の声に、わずかな冷たさが混じる。


ミリアは何も言えなかった。


聖女候補(せいじょこうほ)として教会(きょうかい)に呼ばれた田舎娘(いなかむすめ)に、王宮の朝食の献立など決められるわけがない。誰も教えてくれない。聞けば「ご存じでしょう」と返ってくる。聞かなければ「()かりのある妃殿下候補ですこと」と陰口(かげぐち)を叩かれる。


「……いつも通りで、よろしくお願いします」


それしか言えなかった。


---


王太后の茶会。


磁器(じき)の触れ合う音が、針のように耳を刺してくる。


「あら、その茶器(ちゃき)の組み合わせ。ロザリンド嬢ならお選びにならなかったでしょうね」


王太后の唇が、優雅(ゆうが)()を描いた。


先代(せんだい)の妃殿下も、もっと(かく)の高い磁器を好まれましたわ。──まあ、地方育ちの娘さんには、まだ難しい話でしたかしら」


ミリアは膝の上で指を組んだ。


「申し訳ございません、王太后陛下。次よりは、必ず」


「ところで、ミリア」


不意に名前を呼ばれて、心臓が()ねた。久しぶりに聞いた、自分の名前。


しかし続いた言葉は、ナイフだった。


「世継ぎは、まだ?」


茶器の縁を撫でていたミリアの指が、止まる。


「早く(さず)からないと、貴女(あなた)存在価値(そんざいかち)が問われますよ。アルフレッドが貴女にお求めになることは、たったひとつなのですから」


存在価値、と王太后は言った。


()の奥から、()っぱいものがせり上がってくる。


このまま伝えてしまうべきか。今朝、医師に告げられたばかりの事実を。


──いや、と思い直す。アルフレッド様より先に王太后陛下にお伝えしたら、後で何を言われるか。だがアルフレッド様にすら、まだお伝えしていない。判断材料(はんだんざいりょう)を、誰も教えてくれない。


「世継ぎを産めば、全部うまくいくはず」


口の中で、聞こえないほど小さく呟いた。


そう。世継ぎさえ産めば、この嫌味(いやみ)は止まる。王太后も、家政長も、侍女も、皆ミリアを「世継ぎを産んだ妃殿下」として(あつか)わざるを得なくなる。


ロザリンド・エイベルが、ついに手に入れられなかったもの。


それを、私が先に手に入れる。


「陛下のおっしゃる通りに、(つと)めてまいりますわ」


ミリアは、教科書通りの上目遣(うわめづか)いを返した。


---


政務机(せいむづくえ)に、書類の山が崩れそうに積まれていた。


「こちら、王太子殿下のお名前でご署名ください」


王太后付きの侍女が、淡々と差し出してくる。


「中身は……」


「私は存じません。妃候補がお読みになった上で、ご署名くださいませ」


明らかに、答えるつもりはなかった。


書類の山は、崩れそうなほど高く積まれている。一枚ずつ中身を(あらた)めていては、日が暮れてしまう。


その束には、教会の救済基金(きゅうさいききん)を一族の領地(りょうち)へ流す書類が、一枚、紛れ込んでいた。ロザリンド・エイベルなら、ひと目で不正と見抜く程度の、雑な書類が。


──だが、ミリアは読まなかった。


(こんなもの、いちいち読んでいられない)


ミリアは羽根ペンを取った。ペン先が紙を撫でる。


(そもそも、悪いのは私じゃない)


(お姉様がいながら、ほんの少し上目遣いで囁いてさしあげただけで、アルフレッド様は呆気なく落ちた。「お姉様に、いじめられているの」と涙をひと粒こぼしてみせたら、それを本気になさって、婚約者だったお姉様を、あっさりお捨てになった。──先に惚れたのは、あちらのほうでしょう?)


(お姉様が、ご自分の婚約者ひとつ繋ぎ止めていらしたら、私がこんな椅子に座ることもなかった。本来なら今ごろ、田舎の領地で、家族とのんびり暮らしていたはずですのに)


ミリアは、自分が(おとしい)れた相手の名前を、心の中で何度も(とな)えた。


(お姉様、ご覧になって。私はこの椅子で、お姉様より、上手(じょうず)にやってみせるから)


名前を呼ばれず「世継ぎは、まだ?」だけが刺さる朝に「逃げて正解だったわ」と思ったら、【びっくり】か【いいね】を! 我慢しなかった主人公への一票として★を。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ