「仕事の話だ」
ロザリンドの中で、何かが、一瞬、引っかかった。
(あら)
普段、この方は「業務上必要だった」と言う。「合理的判断だ」と言う。「採算が合う」と言う。
「仕事の話だ」は、聞いたことがない言い回しだった。
何かを、覆い隠す時の、人の声に似ていた。
──と、思いかけて、ロザリンドはその引っかかりを、抽斗の奥に押し戻した。
(深読みは、社畜時代の悪い癖よ)
(田中律子、お前は上司の機嫌を読みすぎて死んだのよ。今世では、もうやめなさい)
そう自分に言い聞かせて、ロザリンドは紙束をまとめ直した。
「結構ですわ」
事務的に頷く。
「三年前から人材確保のお眼鏡にかけてくださっていた、ということでしたら、私としては光栄ですわ。アルバート議会の議事録の件まで把握なさっていたのは、諜報網の精度の高さを物語っていらっしゃいますし」
「……そうか」
「ただ一点だけ」
ロザリンドは、いちばん下の一枚をつまみ上げた。一月十四日、壁際、フィッシャーの貿易論、退出時に挨拶なし──の、あの一枚。
「これは、私の実績とは、関係ございませんわね」
ルーカスの肩が、ほんの数ミリ、動いた。
ロザリンドは続けた。
「でしたら、雇用対象者の人物評価のための記録、ということでよろしいですか」
「…………」
「閣下」
「……それでいい」
「左様でございますか」
ロザリンドは、にっこり、というほどでもなく、業務的に口角を上げて、紙束を抽斗に戻した。
(三年前から私の読書傾向まで監視されていたなんて、本当に徹底的な方ね。──それが救いだなんて、思わないけれど)
胸の中で、軽く打ち消した。
打ち消した瞬間、なぜか、紅茶のカップを持つ手が、ほんの少しだけ、温かかった。
***
ルーカスが退室した後、執務室には、焼き菓子と、未開封の決裁書と、抽斗の奥に戻されたばかりの紙束だけが残った。
ロザリンドは試算表に向き直り、関税推移の二十年表を、新しい紙に書き写し始めた。
(さて、業務、業務)
机の角で、紅茶が、ゆっくり冷めていく。
──一方、廊下の向こうの執務室で。
側近のディーター卿が、扉を閉じた直後に、主君に向かって、控えめに尋ねていた。
「閣下。例の、一月十四日の覚書、ご回収なさいますか」
ルーカスは、しばらく、何も答えなかった。
それから、ぽつりと一言。
「……いい。あの紙は、彼女の手元にあってほしい」
ディーター卿は、深く礼をした。
主君の声が、今朝、聞いたばかりの「仕事の話だ」と同じ、低さだったことを、彼は知っていた。
***
ロザリンドの執務机では、二十年分の関税推移が、整然と並び始めている。
抽斗の奥の紙束は、もう、彼女の意識の外にある。
ただ──いちばん下の、業務外の一枚だけは、なぜか、別の薄紙に挟まれて、引き出しのいちばん手前に、移っていた。
次に引き出しを開けたとき、すぐ目に入る位置に。
「いい。あの紙は彼女の手元にあってほしい」のじれったさにじたばたしたら、【にこにこ】を! ★がひとつ増えるたび、二人の距離が一行縮みます。




