あの二人、もしかして……?
廊下の角。
書記官のオズワルドと、若い侍従のクラウスが、声を潜めて立っていた。手元の書類は、もはや小道具である。
「なあ、お前、最近気づいたか」
「何のお話で」
「閣下、朝、いつもより半刻早く来てらっしゃる」
クラウスは、視線を斜めに泳がせた。
「……気づいておりました」
「だろう」
「しかも」
クラウスは、書類の角でそっと自分の口元を隠した。
「ご自分で、焼き菓子の包みを確認なさってから出ていかれます」
オズワルドは目を閉じた。
「……あの二人、もしかして……?」
「いえ。ロザリンド様は、はっきり『業務』とおっしゃっていました」
「そりゃそうおっしゃるだろうな、あの方は」
深い、深い溜息だった。年季の入った文官が、何かを諦めた時にだけ吐く種類の息である。
クラウスは、上司の沈痛な顔を見上げた。
「あの……書記官殿。これは、どちらに賭けるべき案件で」
「賭けるな。命に関わる」
「は」
「気づかなかったことにしておけ。我々は何も見ていない」
二人は無言で頷き合い、別々の方向へ歩き去った。背中だけが、妙に同志めいていた。
***
午後の執務室。
ロザリンドの机の前には、事務官たちが緩やかな列を作っていた。
「ロザリンド様、こちらの稟議もご覧ください」
「ロザリンド様、人事案件のご相談を」
「ロザリンド様、申し訳ありません、急ぎでひとつ──」
ロザリンドは一件ずつ書類を受け取り、要点を確認し、判を押し、ひとことずつ返していく。
事務的だが、突き放してはいない。
「これは原案で結構ですわ。財務に通したら写しをいただけますか」
「人事の件、本人の希望は確認なさいました? 先に聞いた方が早く片付きます」
「急ぎの件は、結論から先に。前置きは後で」
列の最後尾で、若い書記の青年がそっと隣の同僚に囁いた。
「……前の上長殿の時とは違うな」
「何が」
「最後まで聞いてくださる」
同僚は黙って頷いた。それから、もう一言だけ付け加えた。
「しかも、こちらの間違いを、ちゃんと『間違いです』と言ってくださる」
「だからやりやすい」
「だから、辞めたくない」
二人は何でもないことのように喋っていたが、その声の温度は、廊下の角で囁いていた書記官たちのものと、たぶん同じ種類だった。
列が一段落した頃。
執務室の扉が開いて、ルーカスが顔を半分だけのぞかせた。
「今日はもう上がれ」
短く、それだけ。
ロザリンドは判子を置いた手のまま、軽く頷いた。
「承知しました」
扉が閉まる。
事務官たちは、何も言わずに、それぞれの持ち場へ散っていった。誰一人として、上司命令を伝えに来たのが大公本人だったことに、表向きは触れなかった。
***
私室。
ロザリンドは、机の上に一冊の本を開いた。
大公国の書肆で取り寄せた、貨幣史の古典である。
前世の田中律子が、終電帰りの鞄に詰めて、結局最後まで読み切れなかった一冊。装丁こそ違うが、構成がよく似ていた。
椅子の上で膝を抱える。窓の外は、ちょうど夕暮れに入るところだった。
ページをめくる。
字を、目で追う。
──追える。
頭の中に、別の仕事が割り込んでこない。
誰の機嫌も、明日の段取りも、未提出の書類も、今この瞬間、ロザリンドの脳の片隅に居場所を持っていない。
ロザリンドは、ページの上で指を止めた。
(本を読む時間が、ある)
短く、心の中だけで呟いた。
(──ある、のね)
ただ、それだけだった。
それだけのことが、なぜか、胸の奥に小さく落ちて、しばらく動かなかった。
「賭けるな。命に関わる」のニヤニヤが止まらなかったら【笑える】、尊い職場に頷いたら【にこにこ】を! ★は観客席からの応援票として軽くひとつ。




