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秘密の朝、見つけてもらえる

目を開けて、ロザリンドはしばらく天井の(はり)を数えた。


窓の外で、鳥が鳴いている。


朝の光が、ベッドの足元に薄く差している。


──身体が、軽い。


そのことに気づくのに、たっぷり三呼吸かかった。


()()()()()()()()()()()()()()()()()


***


田中律子の頃。


経理部の机に突っ伏して仮眠(かみん)を取り、目が覚めるたび、首と肩と腰が同じ角度で固まっていた。


三徹(さんてつ)明けの土曜の朝に、ようやく自分のベッドに辿(たど)り着いても、(まぶた)の裏ではずっと数字が走っていた。


──目が覚めても、疲れだけが残っている朝。


それが、二十八年分(にじゅうはちねんぶん)の朝だった。


今、ロザリンドのベッドの周りには、何もなかった。


書類も、未処理の試算表も、明け方まで点いていた灯りの(のこ)()もない。


ただ、よく眠れた身体が、ひとつ。


ロザリンドは上体を起こし、自分の指を一度握って開いた。


(あら)


(……指先まで、ちゃんと暖かい)


前世では、ついぞ味わわなかった感覚だった。


***


身支度を済ませて、執務室の扉を押し開ける。


机の上には、いつものものが置かれていた。


白い紙の小さな包み。湯気の立つ紅茶のカップ。決裁印つきで戻された昨夜の業務報告書。余白に、見慣れた筆跡で短く一行。


「無理をしないように」


ロザリンドはドアを後ろ手に閉めて、しばらく、机の前に立っていた。


椅子を引いて、座る。


紅茶のカップに、両手を添えた。


(温度が、ちょうどいい)


(──ちょうどいい、ということは)


ロザリンドは指先で、カップの側面をなぞった。


朝、彼女がこの部屋に入る時間に合わせて、誰かが()()()()()()()


冷めたポットを朝一番に運び込んだだけでは、この温度にはならない。


湯を沸かし直し、()らしの時間を計り、ちょうどよく整えてから、ここに置かれている。


それを、毎朝。


(……事務官の業務、と、思っていた)


(けれど)


業務分掌(ぎょうむぶんしょう)としては、説明がつかなかった。


***


ロザリンドは焼き菓子の包みを開いた。


紙が、昨日とは違う、新しいものに替えられていた。


職業病で、つい指が止まる。包装紙(ほうそうし)の質、折り方、留め方──同じ工房、同じ職人。けれど紙だけが、毎朝、新しい。


(……毎朝、買い直されている)


(私が、食べきれずに残してしまった日にも)


(翌朝には、また、新しいものが、置かれている)


ロザリンドは焼き菓子を一つつまみ、口に運んだ。


甘い。


前世から続く癖で、緊張すると、無意識(むいしき)に焼き菓子を握ってしまう。今朝は、緊張していないはずなのに、もう片方の手が、勝手に二つ目を握っていた。


***


紅茶を口に含む。


業務報告書の余白の、短い一行に、目を落とす。


無理をしないように。


ロザリンドは、しばらく、動かなかった。


──こんなふうに気にかけてくれる人が、前世にいただろうか。


ふっと、そう思った。


カップを置く音すら、立てなかった。


いなかった。


一人もいなかった。


残業の灯りを最後まで点けていた経理部で、誰かが温かい飲み物を置いてくれたことはなかった。


倒れる前に「無理をしないで」と書き込まれた書類を、田中律子は、一度も、受け取ったことがなかった。


()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


田中律子は、たぶん、ずっと、それを欲しがっていた。


「いつか誰かに見つけてもらえるかもしれない」と、淡く、ただ、思っていただけで。


結局、誰にも()つけてもらえないまま、机に突っ伏したまま、終わった。


***


(──律子)


ロザリンドは、心の中で、短く呼びかけた。


普段、出さない名前だった。


(今、誰かが)


(あなたのことを、気にかけているわよ)


紅茶は、まだ温かかった。


焼き菓子の紙は、新しいものに替えられていた。


業務報告書の余白の一行は、ロザリンドが昨夜どこまで頑張ったかを、誰かが最後まで読んだ証拠だった。


ロザリンドは、両手のひらの中で、カップの温度を確かめた。


頬には、何も流れなかった。


ただ、息を一つ、ゆっくり吐いただけだった。


***


扉の向こうで、廊下を歩く靴音がした。


規則的で、迷いのない歩幅(ほはば)。いつもより、半刻(はんとき)早い時刻の、その足音。


ロザリンドの手が、ふと止まる。


(──閣下)


(今朝も、もう、お出ましなのね)


業務、と処理しかけて、できなかった。


執務開始の鐘は、まだ鳴っていない。


足音は、彼女の執務室の前で、ほんの一拍(いっぱく)、止まった。


それから、何事もなかったように、自分の執務室のほうへ通り過ぎていった。


ロザリンドはカップを両手で包み直し、扉のほうを、長く見ていた。


(……閣下)


呼びかけてみて、声には出さない。


(あなたが、ですか)


問いの形にすらならない、ただの、確認だった。


***


執務開始の(かね)が、城の上から降ってきた。


ロザリンドは紅茶を飲み干し、焼き菓子の包みを丁寧に閉じて、引き出しの一番手前にしまった。


書類を広げる。


貨幣改革の試行が、走り出している。


今日も、決裁を待つ稟議(りんぎ)が机の端まで届き、事務官たちが列を作るだろう。


閣下が「今日はもう上がれ」と短く告げる時間まで、きっと、瞬く間だ。


ロザリンドはペンを取り、一行目に日付を書いた。


筆先が、いつもより少しだけ、軽かった。


(律子)


もう一度だけ、心の中で呼びかけた。


(今日も、頑張れそうよ)


***


廊下では、書記官のオズワルドが、若い侍従に小声で確認していた。


「……閣下、今朝も、半刻早かったぞ」


「は、はい。ご自分で、焼き菓子の包みと、紅茶のポットを、確認なさってから」


「今日は、紙を取り替えていらしたか」


「……新しい包装紙を、ご自分の手で」


オズワルドは、深く、長い溜息(ためいき)を吐いた。


侍従の顔を、しばらく見ていた。


「あれはな」


「は、はい」


()()()()()()()()()()()


「……は?」


「いや、独り言だ」


オズワルドは書類の束を抱え直して、廊下の角を曲がっていった。


侍従は、しばらく、その背中を見送っていた。


「三年分」という言葉が、どこからどこまでを指すのか、若い彼にはまだ、よくわからなかった。


ただ、ロザリンドの執務室の扉の向こうから、ペンを走らせる規則正しい音が、いつもより、ほんの少しだけ、軽やかに聞こえてきていた。


ちょうどいい紅茶の温度=「誰かがあなたを気にかけている」に胸が動いたら、【泣ける】を。★は、いつか見つけてもらえると信じていた頃の自分へ。

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