数字を間違えた朝
「ロザリンド様、お時間ですが……」
侍女の声が、遠くから聞こえた。
ロザリンドは机に頬をつけたまま、半秒、自分がどこにいるのかを思い出すのに失敗した。
視界の端に、昨夜広げていた銀貨改鋳の試算表。
墨が、頬にうっすら移っている。
「……えっ」
身体を起こす。窓の外がもう、白い。
「あ……ああ、はい、すぐ。えー、もうそんな時間……」
口から出た音が、自分でも一瞬、誰の言葉かわからなかった。
前世のどこかの朝にも、たしか同じ調子で呟いたことがある。終電帰りの、翌朝のデスクの上。
侍女が、扉の隙間から、くすっと笑った。
「あの、ロザリンド様。もしよろしければ、お朝食を執務室へお運びしますが」
「お願いします。──ありがとう」
自然に出た。前世では、礼を言う相手がそもそも、いなかった。
***
貨幣改革の本格試算に入って、五日目だった。
銀貨の純度・刻印・回収段階。三本柱の試算を同時に走らせ、回収段階の旧貨流通量を昨夜のうちに割り出し、決裁用の清書まで終えていた──はずだった。
執務室に入って、机に着く。いつもの紅茶。いつもの白い包み。
「(……いつもね)」
短く呟いて、ロザリンドはカップに口をつけた。
温度は、ちょうど出仕の時刻に合わせて淹れ直されている。前から、気にはなっていた。
そして、業務報告書の控えに目を落とした瞬間、手が止まった。
「……」
清書から、控えへ。控えから、原試算へ。指で数字を追っていく。回収段階の第二期──流通量の桁が、ひとつ、ずれている。
ロザリンドは、紅茶のカップを静かに机に置いた。
(やってしまった)
声には、出さなかった。
***
寝不足は前世から知っている。けれど、当たり前だった分、ミスも当たり前にしてきた。そして当たり前に、上司の前で書類を投げ返された。
「こんな数字、新人でも間違えないだろう」
書類が机に叩きつけられる音と、白く容赦のない蛍光灯。いつも、それがセットだった。
──思い出している、と気づいた瞬間、ロザリンドは小さく息を吐いた。
(落ち着きなさい。まずは訂正版を作って、決裁を取り直す。閣下の執務室へは私が直接お持ちして、口頭で謝罪、原因と再発防止策を一括で報告。それで──)
頭の中で、業務手順が並んでいく。
ここは前世とは違う。筋を通せば、筋の通った扱いが返ってくる職場のはず。
──そのはず、と思いながらも、指先だけが、わずかに冷えていた。
「失礼いたします」
書記官のオズワルドが入ってきた。
両手で抱えていたのは、昨夜ロザリンドが提出した、当の試算書だった。
「閣下より、ご返却にございます。──こちら、もうご覧になりましたか」
「いえ、まだ」
ロザリンドは差し出された束を受け取り、開いた。
決裁印は、押されていた。捺された朱が、まだ新しい。
問題の箇所──回収段階第二期の流通量。そこに、別の筆跡で、短く線が引かれていた。
訂正済み。原案の論理は揺るがない。確認のみ
ルーカスの字だった。何度か議事録の余白で見たことがある、無駄のない、傾きの少ない筆跡。
ロザリンドは、その一行を、しばらく見ていた。
それから、視線をひとつ下に落とした。
決裁印の脇に、もうひとつ書き込みがあった。
この週は試算を一日休んで構わない
「……」
ロザリンドは、書類を持ったまま、動かなかった。
オズワルドが、退室の礼をした後、ふと、戸口で振り返った。
「ロザリンド様。閣下が、念のため、と。──医師に体調を見せておけ、と仰せでした」
「閣下が、ですか」
「念のため、です」
オズワルドは、それだけ言って、出ていった。
***
ロザリンドは、椅子に深く座り直した。
机の端の紅茶は、まだ温かい。
焼き菓子の包みの紙は、昨日のものではなく、新しい白に替えられている。
書類を、机の上にそっと置く。
(──怒られなかった)
胸の中で、短く、その一行だけが、響いた。
(それどころか、休めと書かれている)
声は出さなかった。
ただ、自分の手のひらを、しばらく見ていた。
前世の経理部の蛍光灯の白さは、もう、頭のどこにもなかった。
代わりに、窓から差し込む大公国の朝の光が、ゆっくりと机の角まで伸びてきていた。
「(……閣下に、お礼を申し上げなくては)」
ロザリンドは、本気でそう思った。
そして、その「お礼」を、どういう形で返すのが最も合理的か──頭の中で、当然のように算段が始まった。
新しい紙を、一枚引き寄せる。
表題に、こう書いた。
「試算工程の改善提案、ならびに業務分担見直しの件」
一日休んでよい、と閣下は書いた。ならば、その一日で浮く工数を、別の懸案へ回すのが筋だ。お礼とは、成果で返すもの。ロザリンドは迷いなく、二枚、三枚とペンを走らせた。
呼鈴に応じて入ってきたオズワルドが、盆に積まれていくその束へ目を落とす。
「休め」と気遣って書いた閣下への返事が、これだった。
オズワルドは、廊下に控えた侍従と目を合わせ、無言で天井を仰いだ。
──気づいてくださらないのは、いつものことだ。
廊下の窓の外で、銀貨改鋳の試行を待つ職人たちが、朝の鋳場へ歩いていく音がしていた。
「訂正済み。確認のみ」「この週は休んで構わない」に「わかる」と息が漏れたら【泣ける】、「そんな上司いる!?」なら【びっくり】を! ★は筋が返る職場への一票として。




