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知らない筆跡の、一行

昼。


執務室の扉が、軽くノックされた。


「閣下、昼食を」と侍従の声。


「ここに」


ルーカスの返事に、ロザリンドは顔を上げた。


机の隅に、温かい紅茶のポットと、小皿に焼き菓子が一切れ、置かれていた。


侍従は一礼して、すぐ退室(たいしつ)した。


ロザリンドは試算表を脇に寄せ、紅茶を一口含んだ。


(……あら、いつもより、甘いお菓子)


普段は塩気の効いたパイなのに、今日はバターと蜂蜜(はちみつ)の焼き菓子だった。


(疲労時の血糖値(けっとうち)補給。誰の指示かは存じませんが、的確ですわ)


ロザリンドは焼き菓子をひと口かじり、また起案に戻った。


ルーカスは、自分の机の側から、その動作を一度だけ、目で追った。


それから視線を書類に戻し、ロザリンドのぶんだったはずの決裁印(けっさいいん)を、無言で、一枚押した。


***


夕方。


廊下を、若い事務官の少女が走ってきた。


「ロザリンド様!」


ロザリンドが顔を上げると、少女は息を整えて、にこ、と笑った。


「先週、ロザリンド様がお書きくださった給与体系(きゅうよたいけい)の改定、わたしの父の工房にも反映されました。月の手取りが、銀貨二枚、増えたんです」


「……それは」


ロザリンドは羽根ペンを置いた。


「よろしゅうございました」


「父が、『ロザリンド様にお礼を申し上げたいから、いつか城を訪ねてもよいか』と」


労働対価(ろうどうたいか)の改善は、当然の権利ですわ。礼には及びませんと、お父様にお伝えなさい」


少女は深く頭を下げて、また廊下を駆けていった。


──ロザリンドは、しばらく扉の方を見ていた。


(ロザリンド様、と)


田中律子の声が、また勝手に翻訳していた。


(()()()()()()()()()()()()()()()())


(前世では、書類のファイル名に「担当:田中」と書かれていただけ。社内便の宛先で「田中さん」と呼ばれた以外、私の名前を呼ぶ用事のある人間は──いなかった)


ロザリンドは羽根ペンを握り直した。


握り直しただけで、その先は何も書かなかった。


***


日が暮れた。


ルーカスが顔を出した時、ロザリンドはまだ机に向かっていた。


「終わったか」


「八割方、起案がまとまりました。明日には──」


「明日でいい」


「ですが」


「ロザリンド」


ルーカスの声は、いつもと同じ、低く短いものだった。


「今日はもう休め」


ロザリンドは羽根ペンの動きを止めた。


三秒、考えた。


(命令の優先順位として、上位)


(従う)


「ありがたく承ります」


そっと立ち上がる。


立ち上がった瞬間、視界が、半秒だけ、暗くなった。


ロザリンドは机の縁を、軽く、指で押さえた。


ルーカスは、それを、見ていた。


何も言わなかった。


ただ、退室するロザリンドの背中を、扉が閉まる最後の一瞬まで、目で追っていた。



***


自室に戻ったロザリンドは、いつもより早く寝台に入った。


枕に頬を預けた途端、思考が、ぷつ、と切れる。


(……眠い)


(こんなに、眠いの、いつ以来かしら)


田中律子は、最期まで、こんなふうに眠れなかった。


ロザリンドはそれだけ思って、深い、深い眠りに落ちた。


──翌朝、彼女が執務室の扉を開けた時。


机の上には、いつもの紅茶と、焼き菓子が一切れ。


そして、起案用紙の束の上に、知らない筆跡の短い書き込みが、一行、添えられていることになる。


ロザリンドは、まだ、それを知らない。


「ロザリンド様、と」——名前を呼んでもらえる尊さに胸がじんとしたら、【泣ける】を。★は、呼ばれなかった頃の自分への手向けに。

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