氷を溶かした女
「業務に集中したまえ」
ルーカスの声が、すぐ横で落ちた。
ロザリンドが顔を上げると、彼はちょうど、机の端に積まれた打診状の束を片手でひとまとめにしているところだった。
「下げさせる。君の机に置く類のものではない」
「ええ、業務優先で結構ですわ」
ロザリンドは即座に頷いた。
(閣下のおっしゃる通り。私の本務は経済顧問。婚姻案件は──業務外の郵便物。仕分けは秘書部に一任すべきですわね)
──と、本気で処理した。
ルーカスは打診状を抱えた事務官を退室させ、自分の席に戻った。座った瞬間、わずかに息を吐く。
ロザリンドは気づかない。
ただ、机の隅に残された一通だけが目に入った。返却し忘れたらしい銀色の封蝋。差出人は、海峡対岸の若い当主。
ロザリンドはそれをつまみ、ルーカスの机のほうへ何気なく差し出そうとした。
ルーカスの手が、伸びてきた。
封蝋の上から、ロザリンドの指ごと軽く押さえる。
「俺が下げる」
低い、短い声。
「は」
「こちらで処理する」
ロザリンドは半秒だけ、自分の指の上にある手の温度を考えた。
(……業務分担として合理的ですわね。打診状の整理は閣下のご担当範囲。組織図として正しい)
(正しい、けれど──)
(なぜ、指の上、なのかしら)
一瞬の疑問が頭の隅をかすめて、すぐ流れていった。
ルーカスが手を引いた時には、ロザリンドはもう試算表に目を戻していた。
***
夕方。
大公宮の長い廊下を、ロザリンドが書類を抱えて歩いていく。すれ違った若い侍女二人が、ぱっと背筋を伸ばして深く礼をした。
「ロザリンド様」
「お疲れさまにございます」
ロザリンドは軽く会釈を返して、通り過ぎた。
通り過ぎた背中で、侍女たちは小さく囁き合った。
「ねえ、見た?」
「ええ」
「あの方……ほんとうに、ロザリンド様……」
「氷の大公を、溶かした女」
「やだ、声が大きい」
「だって、本当のことでしょう」
ロザリンドの足音が、廊下の向こうへ遠ざかっていく。まっすぐな背筋を、窓からの夕日が一筋なぞった。
侍女たちの視線に、嫉妬も嫌味もなかった。
ただ、見上げるような静かな憧れだけがあった。
***
執務室に戻ったロザリンドは、打診状の山がいつの間にか半分に減っていることに気づいた。
(あら、片付いたのね)
机の隅には、いつも通り温かい紅茶のカップ。隣に、焼き菓子が一切れ。
ロザリンドは椅子に座り、紅茶を一口含んだ。
(……気の利く事務官には、いつかお礼の品を)
そう、本気で考えた。
窓の外で、夕方の鐘が鳴る。
ルーカスの机の上に、銀色の封蝋がひとつだけ、まだ未開封のまま置かれていた。明日の朝には消えているだろうことを、ロザリンドはまだ知らない。
廊下の向こうから、別の侍女たちの囁きが薄く流れてくる。
「ねえ、聞いた? 氷の大公を溶かした女って──」
囁きは夕日の中に、ゆっくり広がっていった。
来週には、また新しい打診状が届く。
ロザリンドは、まだ何も気づいていない。
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