マントと労務管理
会場の温度が、一段、下がった。
楽士の曲が緩やかなものに変わる頃合い。バルコニーの大窓から、夜気が低く滑り込んでくる。広間の隅で、令嬢たちがそっと肩のショールを引き寄せ始めていた。
ロザリンドは壁際に立ち、給仕から渡されたグラスを指先で弄んでいた。
露出のあるドレスを着たのは、今夜が初めて。──本人としては「業務上の正装」という認識でしかない。
肩が、ほんの少し震えた。
寒い、と思う前に、銀髪の生え際がわずかに粟立っていた。
***
歩み寄ってくる足音には、気づいた。
会場中の視線が、その足音の主に集まっているのも、感覚で把握していた。
ロザリンドが振り向こうとして、振り向けなかった瞬間──
肩に、布が、落ちた。
半歩後ろに立ったルーカスが、自分のマントを無言で外し、ロザリンドの肩に置いた。
それだけだった。
視線を一度だけ交わす。ルーカスは何も言わない。
そのまま、半歩離れた位置に立ち直しただけだった。
会場が、息を呑んだ。
***
楽士の弓が、ほんの一瞬、遅れた。
扇の陰のささやきが、ぴたりと、止まった。
「……今、閣下が」
「ご自分のマントを?」
「あの方が?」
囁きは、波紋のように、広間の端まで広がっていく。
ベアトリスが扇を取り落としかけ、すんでで握り直す。クラリッサが頬の血の気を失っていた。オフィーリアは、なぜか自分の肩を抱いた。
ルーカスは、誰も見ていなかった。
広間にいる他の女性の誰一人として、視線を拾わない。給仕に「水を」と短く告げて、それきりだった。
***
ロザリンドは肩のマントを、わずかに引き寄せた。
ずっしりと重くて、温かい。
(寒さ管理は、労務管理の一環)
田中律子の声が、勝手に翻訳していた。
(前世の上司は、部下が倒れてから「無理するな」と言うタイプ。倒れる前に物理的に温度を補正してくる上司は、はるかに有能。──閣下、リスクヘッジの感度が極めて高い)
質のいい毛織。重さの分散が完璧。掛け置き用ではなく、本来は閣下ご自身の防寒用。──つまり、自分の防寒予算を部下の業務効率に転用したということだ。
(合理的)
ロザリンドは深く頷いた。
(明日は私もショールを多めに。業務効率の最適化は、部下の側からも歩み寄るべきですわ)
会場のざわめきは、止まなかった。
ロザリンドは、ざわめきの意味を一切把握していなかった。
***
──別の場所で。
広間の柱の陰、給仕の動線から外れた死角に、寡黙な剣の達人と呼ばれる側近が、書類の束を抱えて立っていた。
ルーカスがわずかに首を傾けて、その横に並ぶ。
「閣下」
側近の声は、楽士の音に紛れる程度に低い。
「ハインリヒ伯爵家から打診のございました縁談、書類が届いております。クラリッサ嬢、オフィーリア嬢のご縁談につきましても、先方から再確認の使者が」
ルーカスは、グラスを口に運んでから短く答えた。
「そのままで」
「……かしこまりました」
側近は、それ以上何も訊かなかった。
「そのままで」が、何を意味するか。書類が動かず、使者が手ぶらで戻り、縁談が立て続けに立ち消えていく未来が、その一語に圧縮されていた。
ルーカスはもう一度、広間の端に視線を流した。
ロザリンドが、肩のマントを無造作に羽織り直している。
「……寒そうにしていた」
側近にしか聞こえない声で、ルーカスはそれだけ付け加えた。
側近は視線を書類に落とし、返事をしなかった。長く仕えて、返事をしないほうがよい場面の見極めだけは、誰よりも身についている。
***
ロザリンドが壁際に戻ろうとした時、給仕の少女が、頬を赤らめて、近づいてきた。
「あの……お客様、温かいお飲み物を、お持ちいたしましょうか」
「ありがとう。ハーブの茶があれば」
「は、はい、ただいま!」
小走りに離れていく後ろ姿を見送って、ロザリンドはもう一度マントを引き寄せた。
──大公国の使用人は、本当に気が利く。
(人事評価制度が健全に回っている証拠ね)
しみじみと、業務的な感慨に浸った。
***
夜会の終わりがけ。
馬車に戻る回廊で、ロザリンドはルーカスに、丁寧に頭を下げた。
「閣下。マント、お返しいたしますわ。ご厚意、ありがたく頂戴いたしました」
「いい」
短い返事だった。
「明日まで、持っていろ」
「……は」
ロザリンドは三秒考えてから、頷いた。
「ありがたく承ります」
「明日まで」が業務上どういう意味なのか、翻訳が間に合っていなかった。とりあえず命令の優先順位を尊重する。これも労務管理の一環だ。
ルーカスはそのまま、回廊の先へ歩いていった。
ロザリンドは肩のマントの内側で、自分の指先がもう冷たくないことに気づいた。
***
馬車の中で、ロザリンドは膝のマントの裾を、ぼんやりと指でなぞっていた。
質のいい毛織。縫製は大公国の工房。──職業病で、つい生産地と原価を見積もってしまう。
(明日、洗ってお返ししなくては)
そう思いながら、ふと布地の縁を引き寄せた。
うっすらと、誰かの匂いがした。
香水の銘柄として識別しようとして、できなかった。
香水ではなかった。
ただの、誰かの体温の名残だった。
ロザリンドの指が、半秒だけ止まる。
そして、いつものように、また動き出した。
(……明日、洗濯指示を出す前に、香りを移さないよう一度風通しを)
田中律子の声が、勝手に家事タスクを翻訳していた。
馬車の窓の外を、大公国の街灯がゆっくりと流れていく。
肩に残った重みの意味を、ロザリンドはまだ、正しく理解していない。
──翌週の月曜日。
大公宮の事務官たちのもとに、嫌味令嬢三人衆の縁談が「先方の都合で白紙」になった旨の通達が、立て続けに届くことになる。
その頃にはもう、社交界の隅々で、別の噂がささやかれ始めていた。
「氷の大公を、溶かした女がいる、と──」
肩に落ちた一枚のマントにきゅんとしたら【にこにこ】、「寒さ管理は労務管理の一環」の鈍感翻訳に笑ったら【笑える】を! ★は、まだ気づかない彼女への生温かい見守り票として。




