表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

25/66

マントと労務管理

会場の温度が、一段、下がった。


楽士の曲が緩やかなものに変わる頃合い。バルコニーの大窓から、夜気が低く滑り込んでくる。広間の隅で、令嬢たちがそっと肩のショールを引き寄せ始めていた。


ロザリンドは壁際に立ち、給仕から渡されたグラスを指先で(もてあそ)んでいた。


露出のあるドレスを着たのは、今夜が初めて。──本人としては「業務上の正装」という認識でしかない。


肩が、ほんの少し震えた。


寒い、と思う前に、銀髪の生え際がわずかに粟立(あわだ)っていた。


***


歩み寄ってくる足音には、気づいた。


会場中の視線が、その足音の主に集まっているのも、感覚で把握していた。


ロザリンドが振り向こうとして、振り向けなかった瞬間──


肩に、布が、落ちた。


半歩後ろに立ったルーカスが、自分のマントを無言で外し、ロザリンドの肩に置いた。


それだけだった。


視線を一度だけ交わす。ルーカスは何も言わない。


そのまま、半歩離れた位置に立ち直しただけだった。


会場が、息を呑んだ。


***


楽士の弓が、ほんの一瞬、遅れた。


扇の陰のささやきが、ぴたりと、止まった。


「……今、閣下が」


「ご自分のマントを?」


「あの方が?」


囁きは、波紋のように、広間の端まで広がっていく。


ベアトリスが扇を取り落としかけ、すんでで握り直す。クラリッサが頬の血の気を失っていた。オフィーリアは、なぜか自分の肩を抱いた。


ルーカスは、誰も見ていなかった。


広間にいる()()()()()()()()として、視線を拾わない。給仕に「水を」と短く告げて、それきりだった。


***


ロザリンドは肩のマントを、わずかに引き寄せた。


ずっしりと重くて、温かい。


(寒さ管理は、労務管理の一環)


田中律子(たなかりつこ)の声が、勝手に翻訳していた。


(前世の上司は、部下が倒れてから「無理するな」と言うタイプ。倒れる前に物理的に温度を補正してくる上司は、はるかに有能。──閣下、リスクヘッジの感度が極めて高い)


質のいい毛織。重さの分散が完璧。掛け置き用ではなく、本来は閣下ご自身の防寒用。──つまり、自分の防寒予算を部下の業務効率に転用したということだ。


(合理的)


ロザリンドは深く頷いた。


(明日は私もショールを多めに。業務効率の最適化は、部下の側からも歩み寄るべきですわ)


会場のざわめきは、止まなかった。


ロザリンドは、ざわめきの意味を一切把握していなかった。


***


──別の場所で。


広間の柱の陰、給仕の動線から外れた死角に、寡黙な剣の達人と呼ばれる側近が、書類の束を抱えて立っていた。


ルーカスがわずかに首を傾けて、その横に並ぶ。


「閣下」


側近の声は、楽士の音に紛れる程度に低い。


「ハインリヒ伯爵家から打診のございました縁談、書類が届いております。クラリッサ嬢、オフィーリア嬢のご縁談につきましても、先方から再確認の使者が」


ルーカスは、グラスを口に運んでから短く答えた。


「そのままで」


「……かしこまりました」


側近は、それ以上何も訊かなかった。


「そのままで」が、何を意味するか。書類が動かず、使者が手ぶらで戻り、縁談が立て続けに立ち消えていく未来が、その一語に圧縮されていた。


ルーカスはもう一度、広間の端に視線を流した。


ロザリンドが、肩のマントを無造作に羽織り直している。


「……寒そうにしていた」


側近にしか聞こえない声で、ルーカスはそれだけ付け加えた。


側近は視線を書類に落とし、返事をしなかった。長く仕えて、返事をしないほうがよい場面の見極めだけは、誰よりも身についている。


***


ロザリンドが壁際に戻ろうとした時、給仕の少女が、頬を赤らめて、近づいてきた。


「あの……お客様、温かいお飲み物を、お持ちいたしましょうか」


「ありがとう。ハーブの茶があれば」


「は、はい、ただいま!」


小走りに離れていく後ろ姿を見送って、ロザリンドはもう一度マントを引き寄せた。


──大公国の使用人は、本当に気が利く。


(人事評価制度が健全に回っている証拠ね)


しみじみと、業務的な感慨に浸った。


***


夜会の終わりがけ。


馬車に戻る回廊で、ロザリンドはルーカスに、丁寧に頭を下げた。


「閣下。マント、お返しいたしますわ。ご厚意、ありがたく頂戴いたしました」


「いい」


短い返事だった。


「明日まで、持っていろ」


「……は」


ロザリンドは三秒考えてから、頷いた。


「ありがたく承ります」


「明日まで」が業務上どういう意味なのか、翻訳が間に合っていなかった。とりあえず命令の優先順位を尊重する。これも労務管理の一環だ。


ルーカスはそのまま、回廊の先へ歩いていった。


ロザリンドは肩のマントの内側で、自分の指先がもう冷たくないことに気づいた。


***


馬車の中で、ロザリンドは膝のマントの裾を、ぼんやりと指でなぞっていた。


質のいい毛織。縫製は大公国の工房。──職業病で、つい生産地と原価を見積もってしまう。


(明日、洗ってお返ししなくては)


そう思いながら、ふと布地の縁を引き寄せた。


うっすらと、誰かの匂いがした。


香水の銘柄として識別しようとして、できなかった。


香水ではなかった。


ただの、誰かの体温の名残だった。


ロザリンドの指が、半秒だけ止まる。


そして、いつものように、また動き出した。


(……明日、洗濯指示を出す前に、香りを移さないよう一度風通しを)


田中律子の声が、勝手に家事タスクを翻訳していた。


馬車の窓の外を、大公国の街灯がゆっくりと流れていく。


肩に残った重みの意味を、ロザリンドはまだ、正しく理解していない。


──翌週の月曜日。


大公宮の事務官たちのもとに、嫌味令嬢三人衆の縁談が「先方の都合で白紙」になった旨の通達が、立て続けに届くことになる。


その頃にはもう、社交界の隅々で、別の噂がささやかれ始めていた。


()()()()()()()()()()()がいる、と──」


肩に落ちた一枚のマントにきゅんとしたら【にこにこ】、「寒さ管理は労務管理の一環」の鈍感翻訳に笑ったら【笑える】を! ★は、まだ気づかない彼女への生温かい見守り票として。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ