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収支報告書という名の鈍器

「まあ、エイベル様。祖国ではご苦労されたとか」


扇の陰から覗いた最初の一手は、家柄マウントだった。


ベアトリス・ハインリヒ伯爵令嬢(はくしゃくれいじょう)。栗色の縦巻きを揺らし、深紅のドレスをひるがえしてロザリンドの正面に立つ。両脇には、合わせ鏡のように並んだ二人の令嬢。


──布陣三人。お局様の派閥に挨拶し忘れた歓迎会と、ほぼ同じ図ね。


ロザリンドは扇を閉じて、微笑にもならない程度の表情を作った。


「ご挨拶痛み入ります、ハインリヒ伯爵令嬢」


「祖国を追われた方が、よくぞ大公国(たいこうこく)の社交界に。さぞお寂しいことでしょう」


会場の温度が、半度下がった。


周囲の貴婦人たちが、扇の陰でこちらを(うかが)っている。


ロザリンドはベアトリスの瞳の奥を一秒だけ見て、すっと視線を()らした。


逸らした先は、ドレスでも宝石でも、左手の薬指でもなかった。


──資料は、読んできた。


***


「ハインリヒ伯爵領の、先月の麦の市場価格」


ロザリンドの声は、世間話の延長のような穏やかさだった。


「対前年比、二十三%下落でいらっしゃいましたわね」


ベアトリスの口元から、笑みがほんの少しだけ消えた。


「南のレマン経由で安価な麦が流入しております。このままですと、領内の麦作農家の収支が今期で割れますわ。──三戸に一戸の試算ですけれど」


ベアトリスの扇が、止まる。


「もっとも、ハインリヒ領の麦は粒が立っておいでですから、そのまま売るより蒸留に回された方が利が出ますわ。東方のヴァルダ公国では、御領の麦酒に三年来の引き合いがございますの。関税優遇のルートも、まだ枠が空いておりますわ。──ご参考までに」


最後の六文字を、ロザリンドは本当に「ご参考までに」というニュアンスでだけ置いた。


罵らない。脅さない。


事実を、ただ、置く。逃げ道まで、ついでに置く。


ベアトリスの背後で、令嬢のひとりが息を呑んだ。──ハインリヒ家の領民の暮らしを、当主の娘より先にこの女が把握しているという事実に対して。


***


二番手は、すぐに繰り出された。


クラリッサ・モルガン子爵令嬢(ししゃくれいじょう)。淡い水色のドレス。控えめな笑み。


「閣下のお優しさに甘えるのも、ほどほどになさいませね、エイベル様」


恋愛マウント型。──小姑、と前世が翻訳した。


ロザリンドはすっと半歩、相手のほうへ近づいた。


「お気遣いに感謝いたしますわ。けれど閣下のご厚意ではなく、契約ですの」


胸元から薄い手帖を取り出し、一度開いて、すぐ閉じる。


「ところで、クラリッサ様」


「は、はい」


「モルガン家の織物商会、先期の帳簿の二重計上の件、内部監査はお済みでして?」


「──え」


「四月の出荷台帳と、五月の入金記録の照合がずれておりましたわ。祖国でお見かけした商会記録ですから、こちらの所管ではないのですけれど。お家のために、早めに整えられた方がよろしいかと。──老婆心(ろうばしん)ですが」


クラリッサの顔から、血の気が引いた。


ロザリンドはそれ以上押さない。脅迫ではない。早めに整えた方がよい、と本当に老婆心で言っただけ。


ただ、相手にとっては鉄槌だっただろう。


***


三番手は、性懲りもなく、繰り出された。


オフィーリア・ベルニーニ侯爵令嬢(こうしゃくれいじょう)。金髪、緑の瞳、扇のあしらいまで隙がない。


「殿方というのは、ねぇ。若くて、素直な娘がお好きですのよ。あまり、こう──理屈っぽくては」


ロザリンドは二秒だけ間を置いて、真顔で頭を下げた。


「ありがとうございます。参考にいたしますわ」


会場が、凍った。


正確には、ロザリンドの周囲半径三メートルが、無音になった。


オフィーリアの口が、開いたまま止まる。


ロザリンドは顔を上げ、いつもの抑揚のない声で続けた。


「率直なご助言、貴重ですわね。前職でも、上司にこう申し上げられました。『お前は理屈っぽい』と。けれど、理屈で詰めなかった案件で組織が傾いた例は、数えきれませんの。理屈で詰めて傾いた組織を、私は()()()()()()()()()()()()()。ご助言は心の引き出しに大切に仕舞いますわ。──実装はいたしませんけれど」


実装はいたしませんけれど。


オフィーリアの扇の手が、空中で止まっていた。


***


少し離れた壁際で、側近のディーター卿が片手で口元を覆い、咳払いをひとつ落とした。


ルーカス本人は柱に肩を預け、シャンパングラスを持ったまま、まばたきもしていない。


ただ、グラスを持つ指が、ほんの一拍だけ強く曲がった。


──笑いを、堪えている。


会場でその変化に気づいた者は、たぶんディーター卿だけだった。


***


三人衆は、礼の体裁だけ整えて、それぞれの方向にすうっと引いていった。


ロザリンドは扇を開き直し、ふっと息を吐く。


(──ヘイト管理、終了。所要時間、概算四分)


頭の中の社畜が、無慈悲に計上した。


数字で攻めれば、数字で黙る。前世のクレーマー対応とほぼ同じ構造だ。ファンタジー世界でも、人間はあまり変わらない。


ロザリンドはグラスに口をつけ、会場の隅に視線を流した。


ハインリヒ家のベアトリスが、母親らしき年配の婦人の前で立ち尽くしている。母親の唇が動く。「麦の話を、なぜあなたが把握していなかったの」──と、唇の動きで読めた。


──ああ。本日のお説教は、私ではなく、ご実家から。


ロザリンドはそっと視線を戻した。


直接、手は出していない。ただ、事実を一行ずつ置いただけ。


その事実が、相手の家の中で、いま、それぞれ独り歩きを始めている。


***


「閣下」


ディーター卿が、ルーカスの斜め後ろで、低く言った。


「ハインリヒ家、モルガン家、ベルニーニ家、本日の婚姻関連の上申書、いずれもこちらに上がってきておりますが」


ルーカスは、シャンパンを呑み下した。


「保留にしておけ」


「は」


「期限は──」


少し考えてから、ルーカスは短く付け足した。


当面(・・)


「承知いたしました」


ディーター卿は深く一礼し、その場を離れた。


シャンデリアの光の下で、ロザリンドが別の事務官に何か小声で確認している。たぶん次の議題の段取りだ。


ルーカスの視線が、その背中の輪郭を半秒だけなぞった。


それから、シャンパングラスを置いて、彼は自分の足でその背中のほうへ歩き出した。


ロザリンドは、まだ振り返らない。

数字でねじ伏せる三連撃にスカッとしたら【びっくり】、「実装はいたしませんけれど」で噴き出したら【笑える】を! ★がひとつ増えるたび、次の一撃が冴えます。

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