初めての夜会
「業務命令、ですわね」
執務机に置かれた一枚の招待状を、ロザリンドは羽根ペンの先で軽く押さえた。金箔で縁取られた厚手の紙。来週、大公宮で催される晩餐会への、経済顧問あての公式招待状。差出人は、ルーカス・ヴェルナント大公。
「随行、というよりは、単独招集の形ですわね」
書記官オズワルドが、机の向こうで微妙な顔をしていた。
「……ロザリンド様。一応、申し上げますが」
「はい」
「これは、業務命令、ではあります。が」
「が?」
「経済顧問が公式夜会に正式招待されるのは、当大公国の歴史上、初でございます」
ロザリンドは三秒ほど沈黙して、招待状の文面を二度目に読み直した。
「初、というのは、業務上、参考になる情報ですか」
「……たいへん、参考になる情報かと存じます」
「では、覚えておきますわ」
オズワルドは天井を見上げた。──この主は、何を覚えても意味の半分も把握していない。最近、彼は密かにそう思い始めている。
***
夜会前日。
侍女頭がロザリンドの私室に運び込んだのは、深い青のドレスだった。
「閣下のご指示でございます。経済顧問のお立場に、ふさわしいものを、と」
ロザリンドは布地を指でつまんで、わずかに眉を寄せた。
「……いささか、上等すぎませんこと?」
「ふさわしいもの、との仰せでしたので」
「業務用の制服扱いで、よろしいのね?」
「……ええ、まあ、お好きに」
侍女頭が最近覚えた言い回しだった。お好きに。この主の鈍感さに正面から答えると、こちらの寿命が縮む。
ロザリンドは布地を肩に当てて、姿見の前に立った。銀髪に深い青がよく映える。──前世の田中律子が、一度も着られなかった色だ。
(経費で上等な服が支給される。悪くない労働環境ですわね)
そう結論を出して、彼女は満足した。
***
晩餐会当日。
馬車から降りた瞬間、ロザリンドは大広間の入り口の空気を、二秒で読んだ。
(……ああ、これは)
扇で口元を隠した令嬢たちの視線。一斉にこちらを向き、一斉に逸らされる。低く抑えられた囁き。
(──お局様の派閥に挨拶を入れ忘れた、月曜の朝の空気そのものね)
ロザリンドの内側で、田中律子が勝手に翻訳していた。
「あら、あの方が……」
「祖国を、追われたとか」
「氷の大公が、何をお考えで……」
扇の陰の声は、わざと聞こえる距離まで押し出されている。聞かせるための囁き。前世の給湯室で何度も聞いた音色だった。
ロザリンドは表情を動かさず、宮内官に促されるまま大広間の中央へ進んだ。
(参加者名簿、各家の領地収支、当主の派閥、嫁いだ娘の交友。──準備はできてる)
業務モードに、入った。
***
会場の奥の扉が、静かに開いた。
ルーカスが入ってきた瞬間、ロザリンドにも、空気の変化が分かった。
ドレスの裾が一斉に動いた。十数人の令嬢が同時に姿勢を整え、扇を持ち直し、最も美しく見える角度に首を傾ける。会場の温度が、ほんの少し上がった気がした。
(……うわぁ)
田中律子が、思わず声を上げた。
(新任のイケメン部長が初出社した日の、営業二課の女子と、同じやつ……)
ルーカスは、その視線のひとつも拾わなかった。
会場の中央を、誰も見ずに真っ直ぐ歩いてきて、ロザリンドの隣で足を止める。
「準備はいいか」
短い、いつもの問い。
ロザリンドは小さく頷いた。
「ええ、業務開始ですわね」
ルーカスはわずかに視線を落として、ロザリンドの肩のあたりを一秒だけ見た。それから、何も言わずに視線を前に戻す。
令嬢たちの扇が、もう一度一斉に動いた。先ほどとは違う意味の動きだった。
ロザリンドは気づかない。
***
晩餐の席次が告げられる前の、立食の時間。
人波が、ゆっくりと割れた。
割れた先から、深い紫のドレスを纏った令嬢が、ひとり、こちらへ歩いてきた。
栗色の巻き髪、扇の縁から覗く青い瞳。歩き方ひとつに、家格と慣れがにじんでいる。
「ハインリヒ伯爵家のご令嬢、ベアトリス様」
オズワルドが、ロザリンドの斜め後ろから、ごく小さな声で告げた。
「先月の関税改定で、最も大きく収益を落とされた家、のご長女でいらっしゃいます」
(──ええ、存じておりますわ)
ロザリンドは、その家の収支報告書を三回読み直していた。前月の麦の関税収入、対前年比17%減。鉱物商の引き上げ二件。回復見込み、三年後。
ベアトリスがロザリンドの正面に立つ。完璧な角度で微笑んで、扇をほんの少しだけ口元から下げた。
「まあ、エイベル様。お初にお目にかかりますわ」
声は、蜜のように甘く、計算されていた。
「お噂は、かねがね。──祖国では、ずいぶんとご苦労をされたとか?」
会場の音が、一段低くなった。
近くの令嬢たちの扇が、聞き耳を立てる角度に動く。
ロザリンドはゆっくりとベアトリスの瞳を見返し、ほんの少しだけ首を傾けた。
(──ああ、これも知っているわ)
前世の歓迎会で、お局様が新人にかける最初の一言と、まったく同じ温度。
ロザリンドは口角を、業務用にわずかだけ上げた。
「ご丁寧に、ありがとうございます、ハインリヒ様」
声は、淡々として、整っていた。
「ところで──先月のハインリヒ伯爵領、麦の関税収支のお話。少々、ご相談させていただいても、よろしいかしら」
ベアトリスの扇が、空中で止まった。
会場の音が、また一段低くなる。
ルーカスは半歩後ろで、静かにワインの杯を傾けていた。
業務開始、ですわね──と、内側で田中律子がにやりと笑った気がした。
扇の陰の嫌味に「麦の関税収支のお話、ご相談しても?」と返す業務モード起動に、にやりとしたら、【びっくり】か【いいね】を! ★は開戦のゴングを鳴らす拍手がわりに。




