通貨そのもの
王宮の奥。
聖女の部屋では、ミリアが、新調されたばかりの薄紅のドレスの裾を、姿見の前でつまみ上げていた。
「ねえ、これ、もう少し裾を長くできないかしら」
「かしこまりました、ミリア様」
侍女が頷きながら、何気なく付け加える。
「そういえばミリア様。今朝、商人たちが噂しておりましたの。なんでも、祖国の関税の入りが、ずいぶん落ちているとか」
「あら」
ミリアは姿見の中で、首を傾げた。
頬に小さなえくぼができる。完璧に練習された角度。
「まあ、お姉様の仕業かしら」
ふふ、と、薄く笑う。
「あの方、隣国でもお仕事熱心ですのね。お疲れさまですこと」
侍女は、口元だけで笑って、頷いた。
──このドレスの納期、間に合うかしら。先月から、絹の仕入れが、目に見えて細っている。
商人たちが、声をひそめて言っていた。──上等の絹は、いまみな、ポルト経由で、ヴェルナント大公国へ流れていくのだと。
お国のお役所も、聖女様付きの工房に下りる支度金を、今月、また切り下げてきた。
その先の話は、侍女の喉の奥で止まった。聖女様の機嫌を損ねるほうが、よほど怖い。
──絹の道が止まれば、このドレスは、二度と縫えない。
そのことに、この部屋の誰一人、まだ気づいていなかった。
ミリアは姿見に向き直り、裾をもう一度ひるがえして、自分の姿を確かめる。
「でも、もう関係ないわ」
ささやくように、自分にだけ言い聞かせる。
「ここから先は、私の時代ですもの」
姿見の中の女は、笑顔のままだった。
彼女もまた、何が始まっているのか、まだ、知らない。
***
同じ夕方、ヴェルナント大公国・経済顧問執務室。
ロザリンドは、卓上に広げた次月の業務計画表に、羽根ペンを走らせていた。
「次は通貨制度を見ましょう。来月の銀の流入量と──」
事務官長が、横で頷く。
「銀価の試算は、こちらで先に揃えておきます」
「助かりますわ。それと、来週の港湾視察、護衛艦の予定とぶつからない時刻に組んでくださる?」
「承知いたしました」
ペン先が、紙の上を、軽快に滑る。
ロザリンドの頭の中には、もう、祖国の文字は一つも残っていない。
そこへ、執務室の扉が、低くノックされた。
入ってきたルーカスは、いつもの無表情のまま、机の前まで来て、短く言った。
「来週、王宮で晩餐会がある」
「はい」
「経済顧問として、君も出席する」
ロザリンドは、ペンを止めずに頷いた。
「業務の延長として、承知しました」
「業務、ね」
ルーカスは、ほんのわずかに、口角を動かした。
ロザリンドは、その表情に、気づかなかった。
事務官長だけが、書類の角を揃えるふりをしながら、遠い目で天井の梁を数えていた。
ロザリンドは、計画表の余白に、「晩餐会・出席(業務)」と、几帳面に書き加えた。
それから、その下の行に、もう一語、書き足す。
> 次月 ──通貨制度の見直し
窓の外で、大公国の夕日が、街を金色に染めていた。
祖国の財務省では、ちょうどその頃、ランプが灯され始めたところだった。
ランプの灯りの下で、財務官長が、もう一度、収支表をめくり直していた。
数字は、何度めくっても、同じだった。
──四割減は、まだ、始まりに過ぎない。
来月、ロザリンドが手をつけるのは、通貨そのものだった。
祖国は、まだ、知らない。
「ここから先は、私の時代ですもの」——晩餐会も「業務の延長」と言い切る含みに気づいたら【にこにこ】、四割減が始まりに過ぎないと知って【びっくり】を! ★は第4章の幕引きへの拍手がわりに、どうかひとつ。




