祖国の財務官は天を仰ぐ
アルバート王国・財務省、月次収支会議室。
長卓の上に並んだ収支表を、財務官長グレアムは三度、目で追った。
三度とも、同じ数字だった。
「……鉱物通関収入、前年同月、三千二百ルカに対し──」
声が、わずかに掠れる。
「本月、千九百二十ルカ」
部屋の端で、若い書記官が息を呑む音が聞こえた。
四割。前年同月比、マイナス四割。
「毛織物の通関手数料、上乗せ分の収入──ゼロ」
「ゼロ、ですか」
「ゼロだ」
書記官が、震える指で数字を書き写す。インク壺の縁にペン先がぶつかって、小さく音を立てた。
「鉱物商人ギルドからの報告書」
グレアムは、机の上の封蝋を破った。
> 「今期より、当商会の通商路を、中立国ポルト経由に切り替えるものとする。なお、本通告は商道組合規約に基づく正式手続きであり、貴省への返答義務を負わない」
似た文面の通告書が、机の上に積まれていた。
二十三通。
***
「ロザリンド様……」
呟いたのは、グレアム自身だった。
呼んだのではない。願ったのでもない。ただ、口から、勝手に、滑り落ちた。
向かいの席で、副官のヘンリックが、低く言った。
「あの方がご婚約破棄の場で、ガッツポーズをなされた、と──聞いた時、私は」
「言うな」
「私は、笑いました」
「ヘンリック」
「申し訳ありません。ですが、財務官長」
ヘンリックは机に手をついた。指の関節が白くなっている。
「あの方は、笑われるべきお方ではなかった」
グレアムは答えなかった。
ただ、収支表のいちばん下の段──「通商再編による損失見込(次期)」の欄に、自分が朝書き入れた数字を、もう一度見た。
七桁。
王国の年間予算の、約一割。
***
同じ刻限。王宮中庭。
剣の稽古を終えた王太子アルフレッドが、絹のタオルで首筋の汗を拭っていた。
「いやあ、今日の手応えは格別だった」
側近の若い騎士が、慌てて頷く。
「は、はい、殿下。お見事でいらっしゃいました」
「俺の剣筋は、年々良くなっているな。これも王たる者の務めだ」
アルフレッドは満足げに笑い、剣を従者に渡した。
そこへ宰相モーガンが、革表紙の報告書を抱えて、足早にやってくる。
「殿下」
「ああ、宰相か」
「お時間を、少々」
「歩きながらでいい。なんだ、まさかまた、財務省の連中が騒いでいるのか」
アルフレッドは、苦笑した。
「あいつらは数字ばかりで、王国の大局が見えていない。民を安んじるのは王の徳であって、帳簿ではない。俺はいつもそう言っているのだがな」
自分の言葉に、自分でうっとりと頷く。「優しい王太子」の自己像が、今日もまた、滑らかに更新されていた。
「殿下、こちらを」
モーガンは、報告書を差し出した。
アルフレッドは片手で受け取り、歩きながらパラパラとめくる。
数字の羅列。グラフ。鉱物。毛織物。手数料。──そして、ある行で目が止まった。
「ロザリンド・エイベル」
報告書の中ほどに、その名が、印字されていた。
「ヴェルナント大公国経済顧問」と添え書きされていた。
アルフレッドの足が、ほんの半歩、止まりかけた。
「四割……?」
ページの数字を、もう一度、目で追う。胸の奥で、何か小さなものが、ことり、と落ちた音がした。
けれど、その音は、彼の自尊心の前では、虫の羽音より小さかった。
アルフレッドの口元が、すぐに、いつもの形に戻った。
「あの女、隣国でまだ、こんな細かい仕事をやっているのか」
「……殿下」
「みみっちい」
吐き捨てるように言って、報告書を、宰相に押し返す。
「関税の付け替え程度のことだろう。我が国の財政は盤石だ。隣国が小銭を稼ごうが、こちらの懐は痛まん」
「殿下、これは──」
「何の問題もない」
アルフレッドは、にこやかに、宰相の肩を叩いた。
「お前も心配性だな、モーガン。財務省の連中の妄言に振り回されるな。そういう細かい話は、お前が処理しておけ」
そのまま、宰相を置いて、足取り軽く回廊へ消えていく。
宰相モーガンは、その背中を、長く見送った。
それから、報告書の表紙を、両手で握りしめた。
背筋に、冷たいものが、ひと筋、流れた。
通関収入マイナス四割の隣で「みみっちい」と笑う王太子の鈍さに、思わず声が出たら、【びっくり】か【笑える】を! ★は青ざめる宰相の背中をぽんと叩くつもりで。




