改革という名の、私の名前で
新ルート開通から、十日。
執務机の上に、革紐で束ねた書状の山が、ぽすん、と置かれた。
「ロザリンド様。商人組合からの礼状でございます。本日朝の集計分で、三十二通」
事務官長は、束を置いた手を、なぜか少し誇らしげに引っ込めた。
ロザリンドは羽根ペンを止めて、束を見た。
「……三十二通」
「全部でございます」
「全部、私宛てに?」
「全部、ロザリンド様宛てに、でございます」
事務官長は、もう一度、念を押した。
***
港の話は、その朝の報告書で先に上がっていた。
ポルト経由の海路、初日からの十日間で、大公国に流入する商品の総量は、前年同月比で二倍を超えていた。
関税率を引き下げた分、一件あたりの税収は薄くなる。けれど、流通量がそれを上回って跳ね上がった結果、港湾税・商業税まで合わせた歳入総額は、前年同月比で一・四倍に膨らんでいた。
鉱物輸入の卸値は下がり、毛織物の出荷は伸び、銀の流入経路が一本まるごと新設された。
都の鍛冶屋では鋼の値が落ち、市場の毛織物には新しい値札が並び始めた。庶民の食卓には、まだ静かにではあるが、確実に、灯がともり始めていた。
数字は、紙の上で、行儀よく並んでいた。
ロザリンドは数字を二度読み、頷いた。
(計算通り。誤差、二パーセント以内)
職業病だった。書類の上の成果は、まず計算式の正しさとしてだけ、頭に入ってくる。
けれど、革紐で束ねられた三十二通の書状は、計算式では出てこない種類の重みで、机の上に座っていた。
ロザリンドは、一番上の一通を、指先で抜いた。
***
> 「ロザリンド様。
> 私どもの商会は、長年、祖国経由の交易で痩せ細っておりました。
> 帆を畳む話まで、内々に出ておりました。
> 今期、初めて、職人たちに賞与を出せます。
> 本当に、ありがとうございました」
油の染みた紙だった。
書き慣れない手で、何度も書き直したらしい線が、文字の下にうっすら残っていた。
ロザリンドは紙の端を、ひとつ折り直した。
──自分の名前で。
ありがとう、と、知らない人に、書かれていた。
ただ、それだけ。
それだけのことが、机の上で、礼状の束として、確かに重みを持っていた。
ロザリンドは束の山に、紙を戻した。
「事務官長」
「は」
「全通、お返事を差し上げます。同文で構いません。書式は私が下書きします」
「畏まりました」
「一通も、漏らさずに」
「は」
事務官長は、深く礼をした。
ロザリンドは、もう一度、束の上に手を置いた。
紙の重みは、計算式では出てこなかった。
***
その週の、財務報告会。
長卓を囲んだ重臣たちの前で、ルーカスは、いつもの最小限の声量で、議事を進めていた。
新ルートの十日間収支。鉱物取引高の倍増。毛織物の輸出枠の見直し。次月以降の積算予測。
ロザリンドは長卓の中ほどに座って、紙の角を揃えていた。
議題が終盤に差し掛かったとき、ルーカスは羽根ペンを置いて、視線を、財務省記録官のほうに向けた。
「以降の収支は、新項目として記録する」
記録官が、書記用の冊子を構えた。
「項目名でございますか。閣下、お申し付けを」
ルーカスは、一拍、置いた。
「ロザリンド改革」
長卓の空気が、ほんの半呼吸、止まった。
事務官たちの肩が、揃ってわずかに上がった気がした。
ロザリンドは紙から目を上げて、ルーカスの横顔を見た。
「閣下」
「ああ」
「項目名は、会計用語として、簡潔なほうがよろしいかと」
ロザリンドは真顔で続けた。
「『通商再編』、で十分です。固有名詞は、後世の記録官が引きにくくなります」
ルーカスは、ロザリンドのほうに、ゆっくりと顔を向けた。
そして、ほんの、わずかに──
口角が、上がった。
公の場で、初めて。
「俺の決裁だ。譲らない」
短い、いつもの返答。
ただし、いつもより、半度だけ、暖かい角度だった。
***
ロザリンドは、二秒だけ、考えた。
そして頷いた。
「ありがたく承ります」
(……まあ、トップが決めたのなら)
業務的に処理する。決裁権者の意志に従う。労務管理の合理的態度だ。
ロザリンドの内側で、田中律子の声が、また勝手に翻訳していた。
長卓の向かいで、オズワルドが書類の角を揃えるふりをしながら、無言で天井を仰いだ。
(……閣下が、ご自分の名前ではなく、他人の名前を、国家記録に載せられるのを、私は七年で初めて見ている)
オズワルドは、その思考を、書類の余白には書かなかった。
代わりに、記録官が冊子に、新しい一行を、書き付け始めていた。
> ロザリンド改革 ──以降、本項にて収支を記録する。
その一行は、銀のインクで、太く、書かれていた。
***
報告会が終わり、重臣たちが退室する。
ロザリンドは執務室に戻って、ようやく羽根ペンを置いた。窓の外は、もう夕方に傾いている。
執務机の隅で、おまけの団子の包みは、とうに空になっている。代わりに、礼状の束が、机の角に行儀よく並んでいた。
ロザリンドは、その束を、もう一度だけ、指で軽く撫でた。
それから、独り言を、ぽつりと落とした。
「ロザリンド改革、ね」
少し、間を置いた。
「……悪くないわ」
声には、ほんの少しだけ、笑いの形が、混じっていた。
***
その夕方、王宮の中庭では──
剣の稽古を終えた王太子アルフレッドが、絹のタオルで首筋の汗を拭いながら、上機嫌で笑っていた。
ロザリンドの礼状の束も、ロザリンド改革の銀インクの一行も、彼の耳には、まだ、何ひとつ届いていなかった。
国家記録に彼女の名を残すと言い出す大公にきゅんとしたら【にこにこ】、油染みの紙の「ありがとう」にじんと来たら【泣ける】を! ★がひとつ増えるたび、銀インクの一行が太くなります。




