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三十二通の礼状

決裁を終えたルーカスは、立ち上がった。


執務室の扉に向かいながら、ロザリンドの机のそばで、一度だけ()を止めた。


ロザリンドは、もう次の作業に入っていた。布告文(ふこくぶん)の下書き用紙を引き寄せ、羽根ペンを握り直したところだった。


ルーカスは、その横顔を、一拍だけ見た。


それから、扉のほうへ視線を戻して、短く言った。


「……いい仕事だ」


ロザリンドは、ペン先を止めて、顔を上げた。


(おそ)れ入ります」


それだけ返して、すぐにまた手元に視線を落とした。


ルーカスは、それ以上何も言わずに、執務室を出ていった。


扉が閉まる。


事務官長が、ようやく息を吐き出すのが、聞こえた。


***


ロザリンドは、布告文の最初の一行を書き始めた。


筆を運びながら、頭の片隅で、今しがたの「いい仕事だ」を反芻(はんすう)していた。


業務評価(ぎょうむひょうか)のフィードバックを、その場で短く渡してくる上司。優秀だ。文句のつけようがない。


前世だったら──と、考えかけて、すぐにやめた。


前世の話は、業務時間中にはしないと決めている。


ただ、ひとつだけ。


田中律子は、十年勤めた商社(しょうしゃ)で、「いい仕事だ」と直接言われたことが()()()()()()()


成果物(せいかぶつ)は何度も上に吸い上げられ、誰か別の人間の名前で稟議(りんぎ)が通っていく。本人の机には、新しい依頼書(いらいしょ)だけが積まれていった。


ロザリンドは、布告文の二行目に取りかかった。


筆が、いつもより少しだけ、軽い気がした。


***


その日の夕方、事務官長がおずおずと近づいてきて、小声で報告を上げた。


「ロザリンド様。商人組合(しょうにんくみあい)のほうから、すでに問い合わせが三件、入っております。ポルト経由の新ルートについて、関税引き下げの詳細(しょうさい)を早期に開示してほしい、と」


「布告の前ですわね」


「はい。閣下の決裁印が押された、という話が、もう市場のほうに漏れているようでして」


事務官長は、申し訳なさそうに頭を下げた。


ロザリンドは、軽く笑った。


「速い情報網(じょうほうもう)ですわね。結構ですわ。正式な布告日までは詳細は答えない、ただし、ポルト経由は確定だ、と返してください。商人たちは前倒しで船を押さえたいでしょうから、それだけで動けます」


「かしこまりました」


事務官長は、頭を下げて、執務室を出ていった。


ひとり残ったロザリンドは、窓辺に立った。


大公国の(みやこ)の、薄暮(はくぼ)の街並み。


明日には、ポルトに向かう最初の早馬が出る。十日後には、新ルートの最初の船が動き出す。


──祖国の通関収入(つうかんしゅうにゅう)は、来月の決算(けっさん)で、おそらく四割近く落ちる。


ロザリンドは、その数字を、口に出さずに反芻した。


罪悪感は、なかった。


彼女は、祖国を傾けに来たのではない。大公国の利益を最大化する仕事を、頼まれた通りにやっただけだ。条約の穴を(ふさ)ぎ、商品の流れを再設計(さいせっけい)し、決裁ラインに巣食う貴族(きぞく)たちの中抜(なかぬ)きを切り落とした。


それで祖国が困るのなら、困るほうの設計が悪い。


ロザリンドは窓辺を離れて、机に戻った。


布告文の三行目を書き始めようとして、ふと、ルーカスが置いていった「いい仕事だ」の五文字が、また頭の隅をかすめた。


ペン先が、紙の上で一瞬だけ止まった。


──まあ、悪くないですわね。


そう短く独白して、彼女はまた、書き始めた。


布告の日まで、あと十日。


──翌週、執務机の上には、革紐(かわひも)で束ねた()()()()()()()が積まれることになる。


一通残らず、宛名は「ロザリンド・エイベル」。


田中律子が、十年で一通ももらえなかったものが。

「……いい仕事だ」の五文字が、十年言われなかった律子の胸に届いたなら、どうか【泣ける】を。★は報われなかった働き手みんなへの手向けに。

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