通商条約の綻び
(……は? 国家予算の七年分が、ドブに捨てられてた?)
ロザリンドの口から、淑女らしからぬ低い呟きが漏れかけて、淑女の声音で押し戻された。
「お茶のお代わりはいかがですか、ロザリンド様」
「ありがとう。砂糖は二つで」
目線も上げずに、ロザリンドは答えた。
執務机の上には、革表紙の通商台帳が、三段に積まれている。一番上の山は、過去五年分のアルバート王国――祖国――との関税記録。二段目は、それ以前の三十年分。三段目は、付帯協定と覚書の写し。
ロザリンドが顧問の席についてから、二週間。
朝のうちに既存条約を全部洗うと決めて、片端から、ページをめくっていく。
「……ふぅん」
短い呟きが、ひとつ。
それから、銀色の睫毛が、半秒だけ、伏せられた。
***
(鉄鉱、銀鉱、毛織物──祖国以外との通商協定、なし。三品目とも、事実上の独占供給)
ロザリンドの視線が、ある一行で止まっていた。
(手数料、宰相府経由、固定上乗せ、十パーセント)
(──つまり、鉄も銀も毛織物も、買うたびに自動で十パーセント、祖国にピンハネされる仕組み)
(……これ、誰が交渉したんでしょうね。ありえないわ)
声には出さない。
ただ、前世の田中律子が、終電前のオフィスで新人の上げてきた契約書を読んだときと、まったく同じ姿勢になっていた。
利益のラインを片手で押さえ、不利な条項をもう片手の指で数える。指は、片手の五本では足りなかった。
「……お見事ですわね」
皮肉の声に、近くにいた事務官長――白髪まじりの初老の男・オズワルドが、わずかに肩を震わせた。
「あの、ロザリンド様。それは、その、先代の閣下のご署名で……当時はまだ、わが国も若くて、祖国の鉱物と後ろ盾なしでは立ち行きませんでしたので。その代わりに、と差し出した条件が、まあ、当時の宰相が人の良いお方で……それに、今もって、他国とは関税の壁が高うございますから、結局、鉄も銀も毛織物も、祖国からしか入って参らず……」
ロザリンドは、ようやく顔を上げた。
「人が良いというのは、契約交渉では美徳ではありませんわ」
事実を述べる声だった。
「美徳になるのは、結婚式の祝辞と、葬儀の弔辞だけです。契約書の上では、罪です」
オズワルドの顔から、表情が、すっと抜けた。
それから、深く、頭を下げた。
「……仰せの通りでございます」
***
ロザリンドは、ペンを取った。
羽根の先が、白紙のメモ用紙の上を、滑り始める。
過去三十年。独占供給による割高分。宰相府手数料の累計上乗せ。
数字が、彼女の指の下で、勝手に整列していった。
(三十年で、累計、大公国側の損失は……ざっと、国家予算の七年分)
数字を出した瞬間、ロザリンドの口角が、ほんの一ミリ、上がった。
笑ったのではない。
前世の田中律子が、上司の決裁したクソみたいな外注契約の損失額を三徹明けの朝に叩き出して――その数字を眺めた瞬間に、ひらめいた。あのときと、同じ顔だった。
──ああ、これ、巻き返せるやつだわ。
ロザリンドの中で、二つの声が、重なって、同じことを呟いた。
***
執務室の扉が、静かに開いた。
ロザリンドは振り向かない。羽根ペンの動きも止まらない。
オズワルドだけが、はっと姿勢を正して、深く礼をした。
「閣下」
ルーカスだった。
書類もない。決裁を持ってきた様子もない。
ただ、半歩だけ室内に入って、机に積まれた台帳の山を視線でひと撫でし、ロザリンドの背中を見た。
それから、何も言わずに退いて、扉を閉めた。
所要時間、十秒に満たない。
執務室には、ロザリンドの羽根ペンの音だけが、また、戻ってきた。
「……オズワルド」
「はい」
「閣下、何かご用だったかしら」
「いいえ、ロザリンド様」
オズワルドは、ひと呼吸、置いた。
「閣下が、ご自分から執務室の様子を、わざわざ見にいらっしゃるのは……極めて、珍しいことでございます」
ロザリンドは、メモの「累計七年分」という数字の横に、丸印を打ちながら、軽く頷いた。
「業務確認の頻度設定なんでしょう。新任者の二週目に進捗を見る、合理的ですわ」
オズワルドの口の端が、わずかに、ひきつった。
「……さようでございますか」
「ええ」
ロザリンドは、すでに、次のページをめくっている。
オズワルドは、廊下のほうをちらりと見た。
――たぶん、閣下はまだあのあたりで、足を止めている。
口には出さない。気のせいだ、と、自分に言い聞かせる回数が、最近、増えていた。
***
夕方近く、ロザリンドは、ペンを置いた。
メモの最後の行に、こう、書き付けてあった。
> 一.他国と相互関税引下げの通商協定を新規締結
> 二.鉱物・繊維の調達ルートを海路で多元化
> 三.祖国産の鉄鉱・銀鉱・毛織物への輸入関税を段階的に引き上げ
三行。
提案書の骨子は、すでに、できていた。
ロザリンドは、伸びをひとつして、執務机の隅にある、油紙の包みに目をやった。
昨日の屋台の、おまけの団子の最後の一串。朝に温かいお茶と一緒にいただこうと、机の隅に置いておいたものを、結局、まだ食べていなかった。
「……あら」
没頭していて、忘れていた。
ロザリンドは半秒だけ自分の手元を見て、短く笑った。
──律子だったら、デスクの引き出しに突っ込んで、三日後にはカビさせていたわね。
今日は、違う。
明日の朝、ちゃんと、温かいお茶と一緒に、食べよう。
そう思える時間が、自分の手元にあること自体が、まだ、少しだけ、不思議だった。
「オズワルド」
「はい、ロザリンド様」
「対外通商の再設計案を、明日の朝までに、閣下にご提出します」
オズワルドが、息を呑む音が、聞こえた。
「……明日の、朝でございますか」
「ええ。資料は揃いましたから」
ロザリンドは、台帳の山の一番上に、メモを一枚、丁寧に重ねた。
「では、今夜中に清書します。砂糖はあと二つ、お願いね」
オズワルドは、深く、頭を下げた。
廊下に出た瞬間、彼は、もう一度、足を止めて、執務室の扉を振り返った。
その向こうで、銀髪の女が、もう次の羽根ペンを握っている。
──三十年、誰も触れなかった条約に、明日の朝、火がつく。
オズワルドの背筋を、初めて、冷たくないものが、走り抜けた。
その同じ刻限、祖国の宰相府では、いつも通り、十パーセントの手数料が、いつも通り計上されていた。
明日の朝、その「いつも通り」が、終わる。
祖国はまだ、何が始まったのか、知らない。
知ったときには、もう、消せない。
台帳一冊めくっただけで国家予算七年分のドブが見えた——その静かな怖さに背筋がひやりとしたら、【びっくり】か【笑える】を! ★は着火の合図にひとつ。




