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契約書、十年分

その日の夕刻。


執務室の窓から、銀の塔の影が長く伸びる頃合いに、ルーカスが一冊の革綴じを携えて入ってきた。


「条件は前日に提示したものから、上方修正した」


そう短く告げて、ロザリンドの机の真ん中に、書類の束をことりと置く。


「確認してくれ」


***


ロザリンドは羽根ペンを置いて、束を引き寄せた。


ヴェルナント大公国経済顧問契約書(正式版)。


頁をめくる指先が、ほんのわずかに固くなる。


月額。年俸。賞与。住居手当。医療手当。退職金条項。違約金条項。知的財産帰属条項──。


ひとつずつ、指で押さえながら追っていく。田中律子(たなかりつこ)が十年かかっても最後まで目を通せなかった種類の書面が、今、自分の名前のために整然と並んでいた。


違約金条項で、目が一瞬止まる。


祖国アルバート王国が国家予算を抵当(ていとう)に入れたとしても、彼女を引き戻せない金額が、すでにこちら側の防壁として書かれていた。


(……動機⑥、回答済み、と)


心の中で、転職前夜に並べた六つの動機リストに、丸を一つ書き足す。


そして、年俸欄に目が落ちた。


(──月給がこれ……?)


(月給よ、月給。日給じゃないわよね……?)


ロザリンドは羽根ペンを取り直しかけて、もう一度、桁を数える。零の数を、念のため、もう一度。


合っていた。


(前世の私の、十年分の年収だわ)


***


一瞬、手が止まった。


短く、笑った。声には出ない。誰にも見えない。窓の外の銀屋根も、燭台の小さな炎も、机の向こうで姿勢を正すオズワルドの様子も、何ひとつ変わらない。


ただ、胸の奥だけで、ひとつ、呼びかけが起きた。


律子、よかったね。


田中律子は二十八年生きて、誰にも見つけてもらえなかった。終電と休日出勤の連続で、自分の労働の値段を口にすることすら、できなかった。


(──労働だけじゃない)


(誰かのために朝ごはんを作って、洗濯を回して、子供の連絡帳に判子を押して。その一切に、誰も値段をつけてくれなかった人たちが、今この瞬間も、世界中にいる)


そういう女たちの、十年分の働きを、誰かが、紙の上で、ちゃんと数字に直してくれる。


その律子の十年分の働きが。


ロザリンドという一人の人間の、一年分の対価として、今、目の前の紙に、静かに書かれていた。


過去形ではなかった。「あの頃の私」ではなく、「ここまで連れてきた私自身」に、彼女は呼びかけていた。


──大丈夫。()()()()()()()()()()


***


ロザリンドは羽根ペンに新しいインクを含ませた。


署名欄。


筆を下ろす。


ロザリンド・エイベル。


王太子の姓ではない。元婚約者の名でもない。父からもらった姓と、自分の名前。それだけで契約は成った。


ルーカスが向かいの席に腰を下ろし、自分の側にも署名を入れる。さらりとした、慣れた手つきだった。


そして、書面から目を上げずに、こう言った。


「条件に不満があれば、いつでも改定を申し出てくれ。一方的な変更はしない」


ロザリンドは、ほんの一拍、間を置いてから返した。


「ありがたく承ります」


口にした瞬間、自分の声に気づく。


──同じ台詞だった。


昨夜、シャンデリアの下でアルフレッド王太子に「ありがたき幸せに存じますわ」と返した、あの皮肉と、骨組みがまったく同じ。


なのに、今の「ありがたく承ります」は、別の意味で響いていた。


同じ女が、同じ言葉を、別の意味で言える人生に、ちゃんと着いていた。


***


ルーカスは何かを言いかけて、止めた。


口を開きかけ、軽く息を吸い、それから、視線を窓の外に()らす。


「……夕食は別室に用意させた」


短く、それだけ言って、立ち上がる。


「今日はもう休んでくれ。明日からの業務量は、君が決めていい」


執務室の扉が、静かに閉まる。


書記官たちも下がる。


オズワルドが扉の手前で一度、何か言いたげに振り返ったが、結局、頭を下げて出ていった。


***


一人になった執務室で、ロザリンドは契約書の余白に、ごく小さく、書き込みを入れた。


有効期限:私が辞めると決めた日まで。


誰にも見せない。父にも、ルーカスにも、書記官にも。枕の下に潜らせるあの感覚で、机の引き出しの奥に、こっそりとしまった。


婚約破棄(こんやくはき)の夜から、まだ何日も経っていない。なのに、自分の労働の値段に、自分で丸をつける夜が、こんなに早く来るとは──田中律子は思っていなかっただろう。


ロザリンドは目を閉じた。


ほんの数秒だけ、頭の中で、終電のホームの匂いがした。


すぐに消えた。


***


扉の外。


廊下を歩きながら、ルーカスは胸の内側で、息をひとつ整えていた。


──自分の労働の値段に、自分で丸をつけてくれ。


──それを言うのは、まだ早い。


本当はそう言いたかった台詞を、今夜も、彼は呑み込んだ。三年前から見ていた女が、たった今、自分の名前で、自分の年俸欄に署名した。


三年、離れて待った男にとって、こうして同じ場所にいられるだけで、もう十分だった。


それ以上の言葉は、今夜は要らない。


側近が廊下の角で控えていた。


「閣下。明朝の関税会議、ロザリンド殿の同席は」


「ご本人にお伺いを立てろ」


「は」


「俺ではなく、彼女に、だ」


側近は短く礼をして、足音を立てずに去っていく。


ルーカスは執務室の扉のほうを、もう一度だけ振り返って、そのまま自室に向かった。


明日、彼女は、自分が見つけた最初の構造的欠陥を、紙の上に書き上げる。祖国一国に縛られた、古びた通商路の継ぎ目を。


──それで、ひとつめの国が、()()()()()()()()


ロザリンドはまだ、自分が辞表を出した翌週から、誰の手も汚さずに、ひとつ国を傾かせ始めることを、知らない。


誰も値段をつけてくれなかった働きに胸の奥が熱くなったら、どうか【泣ける】を。★は、あなた自身の働きへの、ささやかな拍手のつもりで。

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