名前のプレート
翌朝、案内された執務室の扉の前で、ロザリンドは足を止めた。
扉の真ん中に、磨き上げられた真鍮のプレートが嵌め込まれている。
経済顧問 ロザリンド・エイベル
たった七文字と、姓と。
ただ、それだけのことだった。
ロザリンドは指先で、文字の溝をひとつだけなぞった。
「ロザリンド」の「ロ」の、丸い縁を。
──父の姓のまま、ね。
「王太子妃殿下」でもなく、「アルフレッド殿下の」でもなく、「悪役令嬢」でもない。彼女の名前と職位だけが、扉の中央に、当たり前みたいに刻まれていた。
(昨日今日、組んだ仕事のはずなのに)
真鍮の色は、もう少し古びていてもおかしくない。いつから用意されていたのか、ロザリンドはあえて考えないことにした。
「ロザリンド様」
扉の内側から声がした。
「お待ちしておりました。どうぞ、お入りください」
***
執務室には五人。
筆頭書記官と名乗った中年の男──オズワルド。書記官が二人、若手の事務官が二人。全員が立ち上がって、ロザリンドに頭を下げた。
「本日より、よろしくお願いいたします」
オズワルドの声は、過不足のない丁寧さだった。「悪役令嬢」「冷酷な女」を品定めする目でも、「新任のお手並み拝見」でもない。
有能な上司が来ることを、純粋に期待している部下の目だった。
ロザリンドは一礼を返し、机を見た。
中央の大机に、整理された書類の山。
直近の通商記録、関税帳簿、各港の収支報告、貨幣鋳造高の三年推移──ロザリンドが第一声で要求するであろう資料が、要求される前に積み上がっている。
(……仕事ができる職場、というやつね)
心の隅で、田中律子が唸った。前世、新しい部署に配属された朝、机の上にあったのは、前任者が辞めて誰も片付けていない伝票の束だった。
「ぜひ、我々の長として、ご指導を賜りたく」
オズワルドが、もう一度、深く頭を下げた。
書記官の二人もそれに倣う。若手の二人だけが、ほんの少しだけ、緊張した顔で背筋を伸ばしている。
ロザリンドは机の前まで歩いて、一度だけ、五人の顔を順番に見た。
「責任は私が取ります」
短く、告げた。
「ですから、あなたたちは、あなたたちの判断で動いていい」
オズワルドの眉が、ほんのわずかに動いた。若手の事務官の一人が、目を丸くした。
ロザリンドは続けた。
「私が見ていないところで判断したことを、私は責めません。逆に、私の指示を待つために業務を止めることのほうが、私の仕事の邪魔になりますので」
「……承知いたしました」
オズワルドが、頭を下げた角度を、最初より一段深くした。
***
それから三時間、ロザリンドはひたすら書類を読んだ。
椅子から立たない。お茶にも口をつけない。羽根ペンで数字を追い、別紙に走り書きをし、また次の帳簿を開く。
書記官たちが交わす視線は、無視した。前世、「新人、また残ってる」「あの子、いつ寝てるの」という類の視線を何百回も背中に浴びた身だ。視線を浴びながら集中する技術だけは、三段持ちである。
三時間後、ロザリンドは羽根ペンを置いた。
「オズワルド」
「は」
「祖国──アルバート王国経由の通商路ですが」
ロザリンドは別紙の数字を、机の中央に滑らせた。
「この設計、十年は古いです。北回りの直通路に切り替えれば、関税収入が二割増えます。祖国側の中継港を経由する設計が、誰の利益にもなっていない」
オズワルドが、別紙を覗き込んだ。
数秒で、彼の顔色が変わった。
「閣下にご報告を」
「ご報告いただけますか」
ロザリンドは羽根ペンの軸を、指で軽く回した。
──祖国の関税収入が、二割、消える。
心の中で、田中律子が「あら」とだけ呟いた。
***
ノックは、彼女が頭の中で「あら」と呟き終えた、ちょうどそのタイミングだった。
「失礼する」
入ってきたのは、ルーカス本人だった。
オズワルドが咄嗟に別紙を差し出そうとするのを、ルーカスは視線で制した。
「まず、彼女の話を聞こう」
椅子も引かず、机の手前に立ったまま、ルーカスは「続けてくれ」とだけ言った。
ロザリンドは、改めて、北回り通商路への切り替え案を説明した。
途中、二度、ルーカスが視線を伏せた。考えているときの仕草だ、と彼女は読んだ。三度目に視線を上げたとき、彼は一度だけ頷いた。
説明を終えるまで、ルーカスは一言も挟まなかった。「結論を急げ」とも、「もっと簡潔に」とも、「そんなことより」とも、言わなかった。
聞き終えてから、ルーカスは短く言った。
「君の案で進めてくれ」
「決裁書類は、明日中にお持ちします」
「事後報告で構わない」
「は?」
「事後報告で構わない」
ルーカスは、机の上の別紙を取り上げて、もう一度、最後の数字だけを確認した。
「君が君の判断で動いたことに、俺が後から判子を押す。それだけだ」
それだけ言って、彼は執務室を出ていった。
***
扉が閉まる音のあと、しばらく誰も動かなかった。
最初に動いたのは、オズワルドだった。
彼は別紙を丁寧に畳んで、ロザリンドの机に戻した。それから、若手事務官たちのほうを振り向いて、ごく小さな声で言った。
「……閣下が、人の説明を最後まで聞かれたぞ」
若手の一人が、ぽかんと口を開けた。
「しかも、決裁書類は要らないと」
ロザリンドは、聞こえていないふりをして、次の帳簿を開いた。
開いたページの税目の集計欄に、小さく印をつける。前世の癖だった。自分の判断で動いていい、と上司に言われた朝には、必ず、その日の最初のページに丸印をつけることにしている。
帳尻が合った、合わないの話ではない。
──律子。あんた、いまの言葉、聞いてた?
心の中で、誰にも聞こえない呼びかけが、もう一度零れた。
返事はない。
ただ、執務室の高い窓から差し込む朝の光が、真鍮のプレートの裏側を、扉の内側からそっと照らしていた。
書記官たちが昼の休憩に下がったあと、ふと顔を上げると、机の隅に、湯気の立つ白磁の紅茶と、皿に焼き菓子が二つ。
侍女の姿は、もう、ない。
ロザリンドはカップに手を伸ばしながら、扉のほうを見た。
──誰の指示かしら。
考えかけて、やめた。たぶん執務時間管理の一環なのだろう。(労務管理は組織運営の基本ですものね)と、田中律子に向かって、言い訳のように呟く。
紅茶は、思っていたより、ずっと熱かった。
「責任は私が取る」と言える上司に言われたことがあるなら【にこにこ】を。責任を取らされたことがあるなら【泣ける】を! ★は、いい職場へのお祝い票として、そっと。




