有給休暇のある世界
控え室に通されたのは、その十分後だった。
天井の高い、白い壁の部屋。窓からは内庭の薔薇園が見える。寝室と続きになっていて、寝台にはすでに替えの旅装と、簡素な室内着がきちんと畳んで置かれていた。
「ロザリンド殿。本日と明日は、ご移動の疲れを抜いていただく日と承っております」
侍女頭らしい年配の女性が、低く告げた。
「休まれる時間は厳守されます。これは閣下のご命令です」
「閣下のご命令」
ロザリンドはちょっと、復唱した。
「……承知いたしました」
「お食事の希望、寝具の硬さ、起床時刻のご希望、後ほど伺いに参ります」
侍女頭は深く頭を下げて、静かに下がっていった。
ロザリンドは扉が閉まるのを待って、ようやく、長く息を吐いた。
控え室の窓辺の椅子に、姿勢を保ったまま腰を下ろす。
膝の上で、両手をきちんと組んだ。
(……「休む時間が厳守される」)
(命令で、休まされる)
田中律子の脳裏を、終電のホームと、月曜の朝の改札と、机に突っ伏したまま明けた窓の白さが、順番に通り過ぎていく。
あの頃、誰ひとり、律子に「休め」と命令してくれなかった。「休んでいいよ」と言われたことすら、なかった。
休むのはいつも自己責任。誰にも言わずに有給を一日だけ申請して、結局その日も家でメールを返していた。
それが──。
(命令で、休まされる)
ロザリンドは、ふっと笑った。
声は出さなかった。誰にも見えない程度の、ささやかな笑みだった。
ただ、組んだ指の力が、ほんの少しだけ抜けた。
***
扉の外で、控えめなノックが二回。
「ロザリンド殿。閣下からの伝言でございます」
オズワルドの声だった。
「労働契約は本日付。ただし、初日と二日目は休養日として消化のこと。長旅明けに執務へ入られ、初動で体調を崩されては当方の損失が大きい、というのが閣下のお考えにございます。三日目朝より、執務室にてご対応の段取りで進めます。条件に異議があれば、いつでも改定をお申し出ください──以上でございます」
ロザリンドは反射的に、口を開きかけた。
「──いえ、本日より執務に入らせて」
そこまで言って、止まった。
書類の山。手を入れたい帳簿。動かしたい数字。──前世の指が、勝手にペンを探していた。
(……あ、これ、田中律子の癖だ)
(休めと言われた瞬間に、自分から残業を申し出る側に戻ろうとしてる)
ロザリンドは扉の前で、半秒、姿勢を保ったままでいた。
それから、もう一度、声を整えて返した。
「……承知いたしました。本日と明日は、休養を頂戴いたします」
扉の向こうで、ごく短い間が空いた。
「は」
それから、オズワルドのものとは違う、低い声が、ひとつだけ被さってきた。
「──助かる」
ルーカスだった。伝言を自分で運んできていたらしい。
たった二文字だが、それは「休まれて助かる」と聞こえる言い方だった。労働を労う言葉のはずのそれを、休むと決めた人間にかける──おかしな順番だ、と、ロザリンドはぼんやり思った。
ロザリンドは、扉に向かって小さく頭を下げた。
「ありがたく承ります」
返事はなかった。
足音が、二人分、静かに離れていく。
ロザリンドは扉の前に立ったまま、もう一度だけ、口の中で同じ言葉を繰り返した。
「ありがたく、承ります」
ほんの一晩前。同じ言葉を、王宮のシャンデリアの下で、別の男に向かって投げた。
あれは皮肉だった。
今のは、たぶん、違った。
***
窓辺の椅子に戻って、ロザリンドは書類入れを、あえて、閉じたままにした。
(明日でいい仕事を今日やる、をやめる)
(命令で、休む)
前世の自分には、絶対にしなかった選択を、今日、一つだけしてみた。
それだけのことが、思っていたより、ずっと、勇気を要った。
(──有給休暇の概念がある世界、初めて来たわ)
誰にも聞こえない独り言を一つ、心の中だけで呟いて、ロザリンドは書類入れの上で、両手を、組んだ。
銀の塔の上で、薄い雲がゆっくり流れていく、よく晴れた朝だった。
「休んでいい」と誰にも言われなかった夜を知っていて胸がじんとしたら、【泣ける】を。有給休暇を取りたい人は【笑える】を。★は、休めなかった昔の自分への手向けに。




