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『魔導回路の調律師 ――戦後復興を支える、誇り高き「裏方」の記録――』  作者: くま3


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第9話:都市固定

 世界が、剥製はくせいになろうとしていた。


 監視塔アイ・タワーの最上階から見下ろした第17区画は、一瞬にしてその「脈動」を失った。

 空を舞っていた鳩は、翼を広げたまま空中に縫い付けられ、噴水から噴き出した水柱は、クリスタルの彫刻のように硬直して光を弾いている。


 音が、消えた。

 風の唸りも、人々の喧騒も、遠くで響いていた蒸気機関の残響も。

 代わりに耳の奥を満たしたのは、鼓膜を直接針で刺されるような、無機質な「静止の耳鳴り」だった。


「……ルードヴィヒ。……街が、……息をしていない」


 隣に立つエマの声が、ひどくかすれていた。

 彼女の足元、広がっていた紫の霧が、まるで見えない巨大な重石に押し潰されるように地面へ張り付いている。


 未来予測課が発動した最終回答――『都市固定フィックス・シティ』。

 それは、この区画に存在するあらゆる因果を、政府が算出した『被害最小の瞬間の未来』に無理やり固定し、上書きする概念的な檻だ。


 広場に目を向ければ、逃げ惑っていた市民たちが、恐怖に顔を歪めたまま、あるいは愛する者の手を握ろうとした形のまま、目蓋まぶた一つ動かせない「静止画」へと変貌していた。

 彼らの細胞一つ一つは、その瞬間の「生存」を強制的に維持されている。

 選ぶことも、動くことも、死ぬことさえも許されない。

 ただ、政府が定めた『正しい状態』として、永遠に保存されるだけの肉塊。


「……ああ。……俺を、……逃がさないつもりか」


 ルードヴィヒは、自身の右手に走る「異様な冷たさ」を感じた。


 視界の端、自分のブーツの先から色彩が失われていく。

 石畳と接している部分から、現実の質感が砂のように崩れ、灰色の無機質なデータへと書き換えられようとしていた。

 都市全体を固定し、その中に浮遊する「誤差」であるルードヴィヒを、逃げ場のない真空地帯へと追い込み、存在そのものを窒息させる。


「ルードヴィヒ! 足が、……また透けて……!」


 エマが駆け寄り、彼を支えようとした。

 だが、彼女自身にも異変が起きていた。

 観測能力を自ら捨て、不確定な存在になろうとした彼女の身体を、都市固定の鎖が容赦なく縛り上げている。

 彼女の関節は、錆びついた古い機械のようにきしみ、滑らかな動きを失いつつあった。


「……私を、構わないで。……このままじゃ、二人とも、……何もなかったことに……」


「黙ってろ、エマ。……まだ、終わっちゃいない」


 ルードヴィヒは、歯を食いしばり、静止した世界を凝視した。

 一見、完璧に凍りついたように見えるこの街。

 だが、アギトと同期し続けている彼の目には、かすかな、本当に微かな「熱」が見えていた。


 広場で固まっているパン屋の主人の、その瞳の奥。

 逃げ遅れた母親が抱きしめている、赤ん坊の小さな指先。


 そこには、固定された因果を拒絶し、微かに震える『意志の揺らぎ』が残っていた。

 肉体は固定できても、人間の思考までを完全に縛ることはできない。

 次に何を言おうとしたか。誰の名前を呼ぼうとしたか。

 その数千通りの「未遂の未来」が、都市固定の膜の下で、熱い蒸気のように煮えたぎっている。


 ルードヴィヒは、その熱を、自らの神経に流し込む決断をした。


「エマ、俺を信じろ。……誤差を『個人』で持っているから消されるんだ。なら、街全体を『誤差』にしてやればいい」


 ルードヴィヒは、監視塔のメインフレームに、自身の全神経を再び接続した。


「――ガ、ハッ……!!!」


 接続した瞬間、ルードヴィヒの脳が、内側から沸騰した。


 流れ込んできたのは、データではない。

 1200人の市民が、今この瞬間に抱いている「迷い」の総量だ。


 (腹が減った。……娘に会いたい。……あの時、謝ればよかった。……死にたくない。……雨が降るだろうか。……明日のパンは焼けるだろうか)


 一千人分の、とりとめもない、しかし切実な「次の一秒への渇望」が、ルードヴィヒの細い神経回路を焼きながら暴走する。


 視界が、ぐにゃりと歪んだ。


 目の前のエマが、三人に、十人に分裂して見える。

 鼻孔を突くのは、焼けた肉の匂いと、嗅いだこともない「未来の雨」の匂い。

 五感が反転し、石畳の感触が、波打つ水面のように柔らかく、そして溶岩のように熱く感じられた。


「……ああ、……あああああああああ!!!」


 ルードヴィヒの毛穴から、血が混じった汗が噴き出す。

 自身の存在保持率が、絶望的な速度で乱高下を繰り返していた。

 自分が誰なのか。ここがどこなのか。

 1200人分の意識が、彼の自己アイデンティティを、津波のように飲み込もうとする。


 だが、その濁流の中で、彼は「アンカー(錨)」を打ち込んだ。


「……俺は、……ルードヴィヒだ……!! お前たちの迷いを、……全部、……現実に引きずり出してやる……!」


 彼がそう叫んだ瞬間。


 バキッ、と世界が割れる音がした。


 空中に固定されていた鳩が、一秒だけ翼を羽ばたかせた。

 噴水の水柱が、一瞬だけ崩れ、また凍りついた。


「……あ、……あ、……」


 広場のパン屋の主人の口から、かすかな溜息が漏れた。


 ルードヴィヒを媒介にして、街全体の固定された因果が、一斉に不確定な「誤差」へと汚染されていく。

 それは、秩序ある滅びを拒絶し、混沌とした生存を選ぶための、命がけの博打だった。


 監視塔のモニターが、真っ赤な警告文字で埋め尽くされる。


 『異常事態:都市固定領域内に、想定外の因果連鎖が発生』

 『原因:個体Lによる、広域誤差共鳴』

 『警告:固定維持不能。領域崩壊まで、残り600秒』


「……ルードヴィヒ、……街が、……揺れてる……」


 エマが、自由を取り戻した手で、崩れ落ちるルードヴィヒの背中を支えた。


 地上の殲滅部隊も、混乱に陥っていた。

 彼らの足元で、アスファルトが液体のように波打ち、昨日壊れたはずの建物が、一瞬だけ修復されては再び崩壊する。

 因果の整合性が取れなくなった世界は、もはや政府のコントロールを完全に逸脱していた。


「馬鹿な……。……街ごと心中するつもりか、ルードヴィヒ……!」


 アイザックの声が、スピーカー越しに聞こえてくる。

 もはや冷徹な執行官の余裕はない。そこにあるのは、理解不能な「バグ」に対する、根源的な恐怖だった。


「アイザック! ……お前の正解は、もうどこにもない! ……ここにあるのは、1200通りの、泥臭い不確定な現在だけだ!」


 ルードヴィヒは、白光する視界の中で、アイザックのいる司令部を指差した。

 血まみれの指先が、空を裂く。


「……来い。……結末は、俺たちが決める」


 第17区画は、今や「半固定・半不確定」という、現実の物理法則が死に絶えた特異点と化していた。


 都市が崩壊し、全てが塵に帰るのか。

 それとも、人類が初めて「予測」という名の檻を食い破り、自律を勝ち取るのか。


 因果の嵐の真っ只中で、ルードヴィヒとアイザックの、直接対決の幕が上がる。


 次話、第10話。

 『因果の臨界、あるいは選択の報い』。

 崩れゆく都市の屋上で、二人の「観測者」が、世界の主導権を賭けて激突する。

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