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『魔導回路の調律師 ――戦後復興を支える、誇り高き「裏方」の記録――』  作者: くま3


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第8話:観測者殺し

 世界が、俺を「直視」できなくなっている。


 第17区画、中央大通り。かつては精密な時計仕掛けのように、人々の歩調さえも最適化されていたその場所は、今や紫の霧と、実体のない「不在の圧迫感」に支配されていた。

 未来予測課の殲滅部隊が、重厚な魔導装甲を軋ませながら展開している。彼らのバイザーに投影されているはずの「最適射撃ポイント」は、今この瞬間、狂ったように点滅を繰り返していた。


「目標、消失したままです! 座標エコーのみが残留!……ですが、被害予測値が、……上昇し続けています!」


 通信機越しに漏れる兵士の悲鳴は、ルードヴィヒの耳に、まるでスローモーションのように届いた。


 現在のルードヴィヒの存在保持率は、0.00001パーセントを下回っている。

 石畳を踏んでも音は数秒遅れて響き、彼が触れた街灯の鉄柱は、彼が通り過ぎた後でようやく「へこみ」を生じさせる。世界というシステムにとって、ルードヴィヒはもはや「処理落ちしたバグ」であり、現実の物理演算から切り離された幽霊に等しかった。


 だが、その幽霊の内側には、凍りつくような怒りと、研ぎ澄まされた殺意が脈動していた。


 (見えないことが、これほどまでに自由だとはな……)


 ルードヴィヒは、銃口を向けて立ち尽くす兵士の真っ正面を、悠然と歩いた。

 兵士の網膜には彼の姿が映っているはずだ。しかし、脳内の予測チップが「そこに人間は存在しない」という正解を叩き出しているため、兵士の指は引き金にかかったまま、石像のように固まっている。


「……主任。……あ、いえ。ルードヴィヒ」


 背後で、エマが震える声を出した。

 彼女だけは、ルードヴィヒを見失っていない。彼女自身が未来から来た「誤差」であり、ルードヴィヒという存在を証明する唯一の観測者だからだ。


「命令を。……この『不確実な世界』で、私たちは何をすべきですか?」


「決まっている、エマ。……まずは、あいつらの『正解』を壊す」


 ルードヴィヒは、最も近くにいた兵士の肩に手を置いた。

 数秒のタイムラグを経て、兵士の装甲に「指の形」をした凹みが生じる。


 ルードヴィヒは、アギトから逆流し続ける演算ログの濁流を、その指先から兵士の魔導チップへと流し込んだ。

 それは、アギトが数十年かけて蓄積してきた「選び取られなかった、無数の無駄な未来」のゴミデータだ。


「――ひ、ぎ、あ、あああああああッ!!」


 兵士が、絶叫と共にのけ反った。

 彼のバイザーの中で、一秒後に起きるはずの「予測された風景」が、一千万通りの「起こり得た悪夢」へと分裂し、炸裂したのだ。


 右へ歩く自分、左へ転ぶ自分、心臓が止まる自分、空へ飛ぶ自分。

「次の一秒」が確定しなくなった恐怖。

 観測者は、未来が見えなくなった瞬間、ただの怯える人間に成り下がる。


「射撃、射撃命令! 座標不明だが、とにかく撃て! 誤差を殺せ!!」


 アイザックの、余裕を失った怒声が響く。

 隊列が崩壊し、兵士たちはパニック状態で無差別に発砲を開始した。だが、彼らの放つ光弾は、実体の薄れたルードヴィヒを虚しく通り抜け、背後のビルを砕くだけだった。


 これが、最初の「観測者殺し」だ。


 ルードヴィヒの反撃と呼応するように、街のインフラが次々と悲鳴を上げ始めた。


 一秒の狂いもなく運行されていた自動車両が急停車し、信号機は虹色に点滅して機能を停止した。

「予測」に依存しきっていた社会が、局所的に、しかし致命的に瓦解していく。


 広場にいた市民たちは、当初、パニックに陥っていた。

 だが、その混乱の中に、奇妙な「熱」が生まれつつあるのをルードヴィヒは感じた。


「……信号が変わらない」

 一人の老人が、立ち止まったまま呟いた。

「次に何が起きるか、機械が教えてくれない……。ああ、……なんて、……なんて恐ろしくて、……自由なんだ」


 老人は、震える足で一歩を踏み出した。それは、予測された最適ルートではない、彼自身の意志による不確かな一歩だった。


 その光景を見て、エマがルードヴィヒの横に並んだ。


「……ルードヴィヒ。私も、決めました」


 彼女は、自らの眼窩に指を添えるような仕草をした。

「確率を『見る』のを、やめます。……次に何が起きるか知っている私は、あなたと同じ場所には立てない。……私も、あなたと一緒に、迷いたいんです」


 エマの瞳から、アギト特有の幾何学的な紋様が消え、濁りのない、しかし力強い意志を宿した「人間の瞳」へと戻っていく。

 彼女は、自ら観測装置としての機能を焼き切り、ルードヴィヒの「共犯者」になる道を選んだ。


「……いいのか、エマ。もう二度と、正解は見えないぞ」

「いいんです。……あなたが覚えている私こそが、私の正解ですから」


 ルードヴィヒは、彼女の熱い手を取り、街の中枢である「監視塔アイ・タワー」を見上げた。


 そこには、未来予測課がこの街の全因果をコントロールするための巨大な演算サーバーがある。

 ルードヴィヒは、紫の霧を纏いながら、重力さえも無視した足取りで、垂直な壁を駆け上がった。


 監視塔の最上階。

 そこには、ホログラムの海に浸かったアイザックが、狂ったように数式を書き換えていた。


「ルードヴィヒ……! 君が、君が世界を、……私の積み上げた完璧な予測を、ゴミに変えていく……!」


 アイザックの目の前に、ルードヴィヒは音もなく着地した。


「アイザック、お前の予測は間違っていない。……だが、当たらない」


 ルードヴィヒは、サーバーの中枢に、自身の「存在しないはずの存在」そのものをプラグ・インした。

 直接的な破壊ではない。

 彼は、予測課のシステムに「観測結果を一切信用できなくする、無限の誤差」を注入したのだ。


 『予測:ルードヴィヒはここで死ぬ(信頼度:0.00%)』

 『予測:世界は救われる(信頼度:0.00%)』

 『予測:明日の天気は晴れ(信頼度:0.00%)』


 全ての「正解」が、無意味な文字列へと変わる。

 アイザックは、崩れ落ちるように椅子から転げ落ちた。


「……正解という概念を、殺したのか……」


「ああ。……これからは、自分の足で歩け。……痛みも、迷いも、全部自分のものだ」


 その瞬間、ルードヴィヒの身体に、強烈な「重み」が戻ってきた。


「……っ、ハ……!!」


 肺に空気が流れ込み、心臓が痛いほどの鼓動を刻む。

 足元の石畳が、確かな硬さを持って彼を支えていた。


 存在保持率、急上昇。


 理由を、ルードヴィヒは知っていた。

 監視塔の下で、街の一部の人々が、予測なしに動き始めていたからだ。

 彼らが「未来を知らないまま、自らの意志で選択する」たびに、その不確定なエネルギーが、同じ「誤差」であるルードヴィヒをこの世界に繋ぎ止める。


 観測されない意思こそが、彼を現実に引き戻したのだ。


「主任……! 世界が、あなたを忘れられなくなっています!」

 駆け寄るエマの目には、涙が浮かんでいた。


 だが、安堵は一瞬だった。

 監視塔のモニターが、赤く染まり、緊急アラートを吐き出した。


 未来予測課、次段階計画:『都市固定フィックス・シティプロトコル』発動。


「……個人で消せないなら、街ごと、……空間ごと『固定』して消し去るつもりか」


 ルードヴィヒは、再び紫に燃え始めたアギトの瞳を見上げた。

 第17区画全体が、巨大な「確定した檻」に飲み込まれようとしている。


「……エマ、準備しろ。……ここからが、本当の泥仕合だ」


 世界が俺を消そうとするなら、俺は世界の「正解」を消し続ける。


 次話、第9話。

 都市固定計画、始動。

 観測不能領域ブラックボックスは、街全体へと拡張され、因果の嵐が吹き荒れる。

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