第7話:観測者を殺す方法
世界から、俺の「居場所」が消えた。
地下施設のプロトタイプに指を触れた瞬間、爆鳴が響いたわけでも、光が溢れたわけでもなかった。
ただ、世界という巨大な織物から、ルードヴィヒという名の糸が一本、静かに引き抜かれただけだ。
「……主任。……あ、ああああッ!!」
隣でエマが悲鳴を上げた。
彼女の視線の先で、ルードヴィヒの左腕――あの調律で焼き切れた、彼の献身の証であった傷跡が、霧のように透き通り、背景の壁と同化し始めていた。
痛みはない。だが、自分の存在が薄氷のように削り取られていく、おぞましいほどの「軽さ」があった。
「逃げましょう、ルードヴィヒ! 早く、地上へ……!」
エマに引きずられるようにして、二人は地上へと這い出した。
そこは、第17区画の馴染み深い大通りだ。つい数日前まで、彼がその命を削って守り抜いた、平和な日常の光景。
だが、何かが決定的に壊れていた。
「……あ、ルードヴィヒさん?」
呼び止めたのは、馴染みのパン屋の老主人だった。
彼はルードヴィヒの顔を見て、親しげに、しかしひどく空虚な笑みを浮かべた。
「いや、お名前は何でしたかな。……ええと、おたく、うちの常連さんでしたっけ?」
「何を言ってるんだ、おやじさん。昨日も……」
ルードヴィヒが手を伸ばそうとした瞬間、老主人の目が泳いだ。
彼の記憶の中で、ルードヴィヒという男の輪郭が、リアルタイムで書き換えられていく。
「……いや、失礼。人違いでした。そんな顔の方は、この街には住んでいない」
老人は、ゴミでも見るような無関心な目でルードヴィヒを通り過ぎた。
彼が先週、石化の初期症状から必死に救い出した男だ。感謝の言葉と共に、焼きたてのパンを握らせてくれたその手が、今はルードヴィヒを「存在しないノイズ」として拒絶している。
「これが、観測者の末路か……」
ルードヴィヒは、崩れ落ちるように壁に手をついた。
だが、その手さえも、壁をすり抜けようとしている。
未来予測課が放った「排除アルゴリズム」は、物理的な攻撃ではなかった。
世界そのものに、『ルードヴィヒは存在しない』という正解を上書きする、概念的な抹殺。
街ですれ違う知人、工房の隣人、彼が守った1200人の市民全員が、一歩歩くごとに、ルードヴィヒという記憶を削ぎ落としていく。
「やめて……。忘れないで! この人は、あなたたちを守るために……!」
エマが通行人にすがりつくが、彼らは困惑した顔で彼女を避けるだけだ。
彼らの目には、ルードヴィヒの姿が映っていない。
ただ、エマ一人が、何もない空間に向かって叫んでいるようにしか見えないのだ。
「エマ、もういい……。無駄だ」
ルードヴィヒは、半透明になった自分の手を見つめた。
世界を救うために正解を選び続けた結果、自分自身が「間違い」として処理される。
この救いようのない皮肉こそが、アギトが隠し続けてきた真実。
「……パパ、行かないで」
エマが、消えゆく彼の服を、爪が剥がれるほどの力で掴んだ。
「みんなが忘れても、私だけは……! 私は、あなたがいない未来を一度見てる! あの地獄を二度も繰り返させないで!」
彼女の慟哭が、静まり返った街に響く。
その瞬間、ルードヴィヒの脳内に、プロトタイプからの最後にして最悪の「選択肢」が浮かび上がった。
一つ。このまま消滅を受け入れ、ルードヴィヒという「汚れ」のない、清らかな救済を世界に与えるか。
二つ。自分をこの世界に繋ぎ止めるために、アギトのコアを強制破壊し、今度こそ世界そのものを道連れにするか。
「……観測者を、殺せばいいんだな」
ルードヴィヒは、かすれる声で呟いた。
だが、それは自分を消すことではない。
「自分自身」を殺すのではなく、自分を「消去対象」として定義している『世界の観測システム』そのものを、内側から食い破る。
「エマ、俺を離すな。……お前の記憶だけが、俺をこの世界に繋ぐ唯一の重りだ」
ルードヴィヒは、感覚の消え果てた左腕を、自身の胸――アギトの心音と同期する、あの忌々しい鼓動へと突き立てるように構えた。
自己消滅まで、残り300秒。
背後からは、ルードヴィヒを視認できないはずの未来予測課の部隊が、エマという「座標」を頼りに、無差別の殲滅砲火を開始しようとしていた。
「見えていなくてもいい。……俺の『痛み』だけは、この世界に刻みつけてやる」
ルードヴィヒは、存在しないはずの足で地面を蹴った。
次話、第8話。
忘却の嵐の中で、彼は自分を忘れた世界に対し、最大級の「返礼」を開始する。




