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『魔導回路の調律師 ――戦後復興を支える、誇り高き「裏方」の記録――』  作者: くま3


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第10話:因果の臨界、あるいは選択の報い

 世界が、幾層にも重なり合って割れていた。


 第17区画の空は、もはや単なる青や紫ではなかった。

 過去の穏やかな夕暮れ、現在の凍りついた静寂、そしてアギトが演算し続けた「焦土と化した百年後」。それら全ての時間軸が、割れた鏡を繋ぎ合わせたかのように空を埋め尽くし、互いに干渉し合って火花を散らしている。


 崩落を続ける監視塔アイ・タワーの屋上。足元のコンクリートは、一秒ごとに「堅牢な床」と「崩れたつぶて」の間を激しく往復し、ルードヴィヒの平衡感覚を無慈悲に削り取っていく。


「……見ろ、ルードヴィヒ。これが君の望んだ『自由』の成れ果てだ」


 頭上に浮かぶ、因果の歪みが作り出した仮想の足場。

 そこに立つアイザックは、もはや一介の役人ではなかった。彼の周囲には、都市固定の元データである黄金の数式が幾重にも輪を成して回転し、彼をこの狂った世界で唯一「確定」された存在として際立たせている。


「物理法則は死に、因果は臓物を撒き散らしてのたうち回っている。……君がこの街の『正解』を殺したせいで、1200人の命は、今やどちらへ転ぶこともできない地獄に放り出されたんだ」


 アイザックの声は、増幅されたノイズのように街全体へ響き渡る。

 広場を見下ろせば、固定を解かれかけた市民たちが、奇妙な現象に見舞われていた。

 ある男は、泣きながら逃げ出す「幻影」と、その場に踏みとどまって戦おうとする「幻影」に分裂し、どちらが真実か定まらぬまま発狂しかけている。

 選ばれなかったはずの未来が、選ばれた現在を食い破ろうとしているのだ。


「自由とは、無責任の別名だ、ルードヴィヒ。……予測という名の責任を放棄した君に、この惨状を止める術はない」


「……違うな、アイザック」


 ルードヴィヒは、血を吐き捨て、震える足で立ち上がった。

 彼の身体は、指先から粒子となって崩れ、また強引に再構成されるという、地獄のような明滅を繰り返している。


「予測は責任じゃない。……それは、誰も傷つかずに済むための『免責装置』だ。……お前たちは、誰も悪者にならないために、人から『選ぶ権利』を奪っただけだ。……選ばせないことこそが、生きた人間に加える最大の暴力なんだよ」


「……ならば、その高貴な理想の代償を、君自身の手で支払うがいい」


 アイザックが手をかざすと、黄金の数式が収束し、二つの巨大な光の門がルードヴィヒの前に出現した。

 それは、この街に残された最後の、順序だった「正解」の分岐点だった。


「選択肢は二つだ。誤差である君にしか、この確定は行えない。


 A:都市固定を100%に再起動する。

 1200人は再び『剥製』に戻るが、その生存は永遠に保証される。世界は予測可能な平和を取り戻し、君とエマという『汚れ』だけが綺麗に消去される。


 B:都市固定を完全解除する。

 因果の暴走を止めず、この街を確率の海へ沈める。消滅の確率は99.9%。……だが、奇跡的に生き残る者がいるかもしれない。


 さあ、選べ。……数千の命を『平和な静止』に捧げるか、『絶望的な博劇』に投げ出すか」


 アイザックの冷徹な問いが、ルードヴィヒの脳髄を刺す。


「ルードヴィヒ……」


 エマが、傍らで膝をついた。彼女の身体もまた、限界を迎えていた。

 彼女はAを選べば、この街が――自分を「パパ」と呼んでくれたあの未来の破片が――形としては救われることを理解していた。


「……私は、戻りたくない。……選ばせない、正解だけの世界には。……ルードヴィヒ、あなたが選ぶなら、それがどんな地獄でも、私はそれを『私たちの正解』だと信じます」


 エマの瞳に宿る、一点の曇りもない覚悟。


 ルードヴィヒは、目を閉じた。


 世界が一瞬だけ、完全に停止したように感じられた。

 彼の意識は、アギトを通じて、1200人分の「未遂の未来」の海へと沈んでいく。


 ある者は、恐怖で友を裏切ろうとしていた。

 ある者は、絶望して自ら命を絶とうとしていた。

 ある者は、狂喜して誰かを傷つけようとしていた。


 (……ああ、そうだ。……どれも、正しくなんてない)


 醜く、身勝手で、予測を裏切る泥だらけの意志。

 だが、それこそが、この世界で唯一「生きている」証だった。


「……アイザック。お前は、どちらかを選べと言ったな」


 ルードヴィヒは、目を開けた。その瞳は、もはや人間のものではなく、アギトとプロトタイプ、そして1200人分の迷いを飲み込んだ「不確定の深淵」の色をしていた。


「……俺は、どちらも選ばない。……第三の答えを、俺自身で創る」


「何だと……?」


 ルードヴィヒは、AでもBでもない、光の門の「隙間」へと、自らの存在保持率の全てを叩きつけた。


 それは、都市固定を解除しながら、自分自身をこの街の「唯一の予測点アンカー」として、因果の渦の中に永久に固定するという狂気。


「自分を、生贄にするというのか!? 街を救うために、君という誤差を、この街のいしずえにして消えるというのか!」


「生贄じゃない。……これは、俺の『意志』だ!!」


 ルードヴィヒの身体が、凄まじい光を放ちながら分解されていく。


 アイザックは、その光景に立ちすくんだ。

 彼の脳内の演算ユニットは、ルードヴィヒの行動を「論理的自殺」と定義し続けている。だが、彼の心――予測チップを埋め込まれる前の、かつての人間としての心は、別の何かを感じ取っていた。


 (……ああ、そうか。私は、怖かったのだ)


 アイザックは、崩れゆく足場で自嘲の笑みを浮かべた。

 彼は未来を愛していたのではない。未来が決まっていないことの恐怖に、耐えられなかっただけなのだ。

 間違えること。誰かを傷つけること。責任を取ること。

 それらすべてを「予測」という神に丸投げし、安全な観測席で呼吸をしていた。


 だが、目の前の男はどうだ。

 ルードヴィヒは、神の座など求めていない。

 彼はただ、泥にまみれた1200人の「迷う権利」を守るために、自らの存在という唯一の正解を捨てた。


「……最悪だ。……君は、予測もできない、固定もできない、ただの『呪い』を世界に残した。……だが、ルードヴィヒ」


 アイザックは、瓦礫と共に奈落へと堕ちていく瞬間、生まれて初めて、計算式には存在しない晴れやかな顔をした。


「……私には、一生かかっても出せなかった答えだ。……せいぜい、……呪わせてもらうよ。……この、素晴らしく不確かな世界を」


 アイザックの姿が、光の渦の向こう側へと消えていった。


 世界が、収束を始めた。


 空のひび割れが閉じ、止まっていた時計の針が、不規則に、しかし力強く刻み始める。

 広場。

 一人の少年が、石畳の上で派手に転んだ。


「――痛いッ……!!」


 少年は、膝から流れる赤い血を見て、顔をくしゃくしゃにして泣き出した。


 石化でも、固定でもない、生々しい痛み。

 それは、政府が計算した『被害最小の未来』には存在しないはずの、無駄で、しかし確かな「生」の感触だった。


 少年が転んだことで、その後ろを歩いていた母親が立ち止まり、彼を抱き上げた。

 その一瞬の遅れが、また新たな因果を生み、予測を裏切り、世界を複雑に編み直していく。


「ルードヴィヒ! ルードヴィヒ!!」


 エマが、光の粒子となって消えていくルードヴィヒの胸元を、必死に掴もうとする。


「……エマ。……正解じゃなくていい。……選べるなら、……それでいいんだ」


 ルードヴィヒは、最後に一度だけ、愛おしい娘のような少女に微笑んだ。


「……生きてくれ。……お前の、……自由な一秒を」


 最後の言葉が空気に溶けた瞬間、ルードヴィヒの姿は完全に消失した。


 第17区画。

 そこは、世界中の地図から「予測不能区域ロスト・エリア」として抹消された。

 魔導政府のシステムは、この街の未来を一行も書き込むことができない。


 静まり返った監視塔の跡地。

 エマは、一人で立ち尽くしていた。


 彼女の脳内、死に絶えたはずの観測ログが、不意に、一文字だけを吐き出した。


 『個体L:消失/……未完了』


「……未完了?」


 エマは、空を見上げた。


 世界は彼を失った。

 だというのに、膝を擦りむいて泣く少年の声が、風に乗って聞こえてくる。

 この痛みと、迷いに満ちた世界そのものが、彼の遺した「答え」なのだと、彼女は悟った。


 エマの前に、新たな、誰も見たことのない物語のページが開かれる。


 次話、第11話。

 『未完了の観測者、あるいは幽霊の帰還』。


 因果の外側へ堕ちたルードヴィヒが、情報の海で目覚める「真実のプロローグ」。

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