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『魔導回路の調律師 ――戦後復興を支える、誇り高き「裏方」の記録――』  作者: くま3


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第15話:第十聖典の空白、あるいは観測者の不在

 世界が、彼女を拒絶し始めていた。


 中央大聖堂、最深部。

 そこは「記録聖女」エルナが、世界のあらゆる過去と確定した未来を読み解くための、静謐なる知の祭壇である。

 彼女の眼前には、黄金の鎖で封じられた『第十記録聖典』が浮遊していた。それは、この国の歴史において最も忌まわしく、かつ完璧な「終わったはずの事件」を記しているはずの書物だった。


 だが、エルナの指先がその表紙に触れた瞬間、大気が凍りついた。


「……読めない」


 震える声が、無人の回廊に虚しく響く。

 文字が掠れているのではない。ページが破り取られているのでもない。

 そこにあるのは、底なしの虚無――。

 記述そのものが、最初から「存在しなかった」かのように、白紙ですらない透明な空白が、聖典の心臓部を食い破っていた。


 過去改変による因果の変動ではない。記録の破損でもない。

 全知を司るはずの聖女の権能が、特定の「事象」を認識することさえ許されないという、絶望的な拒絶。


「エルナ様、どうされました。……謁見の時間です」


 重厚な扉が開き、王宮筆頭審問官、ヴァルガスが歩み寄ってきた。

 彼の怜悧な瞳は、エルナの狼狽を逃さない。聖女の権威とは、その「絶対的な正しさ」に依拠している。記録が読めないという事態は、彼女がただの少女に成り下がることを意味していた。


「第十聖典に記された『完全犯罪』の結末……。……それが確認できねば、現行の法体系は崩壊します。……犯人の死は、確定しているはずでは?」


「……確定、していたはずです。……ですが、今、私の目には……何も映らない。……世界が、その人物を『なかったこと』にしようとしている……」


 エルナの言葉に、ヴァルガスは冷酷な仮説を突きつけた。

「記録が存在しないということは、未来がまだ『未確定』である可能性がある。……あるいは、聖女様の記録能力には、我々が関知し得ない『成立条件』が存在するのではないか?」


 背後でそのやり取りを聞いていた主人公、カイルは、白紙のページを凝視し、一つの寒気に襲われた。


 (……完全犯罪は、誰かに認識された瞬間に、それはただの『失敗した犯罪』に成り下がる)


「――ッ!!」


 不意に、カイルの脳内に、システムのノイズではない、生々しい「感覚」が割り込んだ。


 それは、錆びついた鉄と、嗅いだこともない「未来の雨」の匂い。

 耳元で、カチ、カチ、と、壊れた時計が時を刻むような不規則な音が響く。

 視界の端、崩れ落ちた瓦礫の隙間に、一人の少年の後ろ姿が、一瞬だけ陽炎のように揺らめいた。


 彼は、自らの爪を手の平に深く食い込ませ、血を流しながら、何事かを呟いていた。

 ――謝ればよかった。

 ――雨が降るだろうか。

 ――明日のパンは焼けるだろうか。


 とりとめもない、しかし切実な「次の一秒への渇望」が、カイルの神経回路を焼きながら暴走する。


「――ガ、ハッ……!!」


 カイルは、自身の存在保持率が乱高下するのを、血を吐きながら耐えた。

 自分が誰なのか。ここがどこなのか。

 その少年の意志が、彼の自己アイデンティティを、津波のように飲み込もうとする。


 (……見た。……俺は、今、彼を……観測してしまったのか)


 カイルは一歩前に出た。額からは血が滲んでいる。

「ヴァルガス卿。……記録が存在しないのは、まだ『観測者』がいないからではないか?」


 カイルの推論は、残酷な真理を突いていた。

 犯人の候補者は、すでに一人に絞られている。

 かつて王都の地下で「清掃人」として働いていた、名前も戸籍もない少年。彼は社会的に抹消され、親からも隣人からも、その存在を忘れ去られていた。


 彼が犯したとされる罪――それは「世界の因果を一人分だけ削り取る」という、概念的な殺人だった。


「彼を観測すれば、彼の存在は肯定される。……それと同時に、彼が犯した完全犯罪もまた、歴史的事実として『成立』し、不可逆な被害を確定させることになる」


 ヴァルガスが杖を突き立てた。

「ならば救いは一つだ。……聖女がその眼で彼を捉え、記録に刻むこと。……そうすれば彼は『存在』し、法による裁きが可能となる」


 だが、カイルは首を振った。

 カイルは、脳内に残るあの少年の、転んで血を流した膝の「痛み」を、ありありと思い出していた。


「……それは、彼を救うことにはならない。……記録に刻まれた瞬間に、彼は『完全犯罪者』としての運命を固定され、死をもってその記録を完結させることになる。……救うために観測すれば、彼は死ぬ。……見捨てれば、彼は存在しないまま、永久に暗闇を彷徨う」


 究極の倫理的分岐点。

 人を存在させるために殺すか。世界を守るために存在を許さないか。


 (……迷っている。……こいつらは、まだ、心の中で迷っているんだ)


 カイルの胸の内で、ルードヴィヒの不敵な笑みが重なった。

 完璧な固定の中にも、人間の「迷い」だけは残っている。

 肉体は固定できても、人間の思考までを完全に縛ることはできない。


「エルナ、……見るな」


 カイルの声が、大聖堂の静寂を切り裂いた。


「そのページを開くな。……未来を知る能力を、今この瞬間だけ放棄しろ。……世界を、……そしてこの国を守るために、その少年を『存在しないまま』にしておくんだ」


 それは、聖女に対する「全能の拒絶」の命令だった。

 聖女が未来を予測することをやめる。それは、神の眼を自ら潰すに等しい、信仰への裏切りである。


「……私が、……見ないことで、彼は……」


「彼は救われない。……だが、殺されることもない。……永遠に誰にも見つからない『誤差』として、この世界の片隅で、ただ息を吸い続けることができる」


 エルナは、震える手で聖典を閉じた。

 黄金の鎖が再び絡みつき、第十記録聖典は沈黙した。


 ヴァルガスは苦々しく吐き捨て、その場を去った。

 聖女の権威は、辛うじて保たれた。記録が存在しないのは「聖女が禁忌として封印したからだ」という政治的な虚飾によって。


 しかし、その直後だった。

 閉じられたはずの聖典の隙間から、一条の不気味な光が漏れ出した。


 カイルとエルナが、恐る恐るその頁を再び開くと――。


 そこには、今まで一文字もなかった空白に、血のように鮮やかな赤色で、新しい一文が浮かび上がっていた。


 『――この完全犯罪は、“記録されなかったこと”によって、ついに成立した』


 エルナの顔から、血の気が引いていく。


「……ああ。……ああ、そういうこと、だったの……」


 彼女は理解した。

 犯人が仕掛けた本当の罠は、自分の罪を隠すことではなかった。

 聖女という「観測者」に、自らの意志で『記録を拒絶させる』こと。

 聖女が「見ない」と決断したその瞬間、その犯罪は誰にも暴かれることのない「真実」として固定され、因果の裏側に永久保存されたのだ。


 カイルの「救いたい」という善意さえも、この完全犯罪を完成させるための、精巧な歯車の一部に過ぎなかった。


「……カイル。……私たちは、……人を消したのでしょうか。……それとも、……怪物を完成させてしまったのでしょうか」


 エルナの内側で、何かが決定的に壊れる音がした。

 彼女が守ろうとした世界は、彼女自身の手によって、修復不可能な「空白の罪」を抱え込むことになった。


 完全犯罪は止まったのか。それとも、始まったのか。


 次話、第16話。

 『観測者の埋葬、あるいは名前のない怪物』。


 世界に穴が開いた。

 そこから這い出してくるのは、誰にも覚えられていない、あの少年の「復讐」だった。

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