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『魔導回路の調律師 ――戦後復興を支える、誇り高き「裏方」の記録――』  作者: くま3


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第14話:思想災害指定、あるいは世界からの宣戦布告

「――ああ、なんて、静かなんだろう」


 第17区画の路地裏。瓦礫の隙間にうずくまっていた少女、ミーナは、頬を撫でる温かな風に目を細めた。

 数分前まで、そこは地獄だった。

 頭上では巨大な殲滅砲が黄金の殺意を膨らませ、周囲では大人たちが血走った目で「どうすればいい」「誰か助けろ」と、獣のような咆哮を上げていた。ミーナは恐怖で奥歯を鳴らし、爪が剥げるほど強く、亡き母の形見であるペンダントを握りしめていた。


 けれど、今は違う。


「……もう、怖くない。……痛くないよ、お母さん」


 ミーナの目の前には、白い法衣を纏った「調律師」が立っていた。

 仮面の奥から漏れ出す淡い青色の光が、霧となって彼女の肺を満たしていく。その香りは、世界で一番甘い菓子のようで、同時に、思考という重荷をすべて溶かしていく劇薬だった。


 (……あ、……消えていく)


 ミーナの脳裏から、「明日」という不安が消えた。

「お腹が空いた」という生存の渇望が消えた。

「生きたい」という、あの胸を掻きむしるような、醜くも愛おしい執着が、音もなく剥がれ落ちていく。


 彼女の瞳から、焦点が失われた。

 代わりに宿ったのは、一点の曇りもない、完成された「正解」の輝き。


「……そうだ。……私は、……ただ従っていれば、よかったんだ」


 ミーナは、握りしめていたペンダントを、無造作に地面へ落とした。

 母との記憶。選ぼうとした未来。それらはすべて、管理された幸福において「余計なノイズ」に過ぎない。

 彼女は立ち上がり、調律師の後ろを歩き出した。その足取りは、まるで精巧に作られた操り人形のように、淀みなく、そして死人のように軽やかだった。


 路地の外では、同じ「幸福」が、津波のように街を飲み込んでいた。


「やめろ……来るな! 触れるなッ!!」


 パン屋のヨハンが、狂ったように麺棒を振り回し、青い霧を追い払おうとしていた。

 だが、霧は物理的な攻撃など意に介さない。それは壁を抜け、皮膚を透過し、神経細胞の一つ一つに直接「最適解」を書き込んでいく。


「……ヨハン、さん……?」


 エマが駆けつけたとき、そこには、膝をついて穏やかに微笑むヨハンの姿があった。


「……エマさん。……君も、こっちへおいでよ」


 ヨハンの声は、これまでに聞いたどんな言葉よりも優しく、そして絶望的に冷たかった。


「……苦しまなくていいんだ。……自分で決めるなんて、そんな疲れることは、もうしなくていい。……未来予測課あっちが言っていることが、全部正しいんだよ。……ほら、こんなに、心が軽い」


 ヨハンは、自分の胸を拳で叩いた。

 そこには、かつて老人の命を救ったときに宿っていた、あの泥臭い情熱の欠片も残っていなかった。


 エマは、背筋に氷を流し込まれたような戦慄を覚えた。

 これは、虐殺ではない。

 魂の「安楽死」だ。


 人々は死んでいない。心臓は動き、呼吸もしている。

 だが、自らの意志で悩み、迷い、間違えるという「生の本質」だけが、外科手術のように鮮やかに切り取られている。


「……ルードヴィヒ……!!」


 エマは、喉が千切れるほどの声で、街に遍在する「幽霊」の名を叫んだ。


「助けて!! みんなが、……みんなが、壊されていく!! あなたが遺した『誤差』が、……消えていくよ!!」


 返答はない。

 それどころか、エマの感覚の端に触れていたルードヴィヒの「焦燥」すら、急速に薄れているのを感じた。


 (……そんな。……ルードヴィヒまで……消されるの……?)


 恐怖の正体を、エマは直感した。

 ルードヴィヒという法則は、人々の「迷い」や「誤差」を燃料にして現実に介入している。

 だが、今、この街の人々は自ら進んで「迷い」を捨て、システムの正解を望んでいる。

 燃料がなければ、エンジンは止まる。

 人々が「幸福な奴隷」であることを選んだ瞬間、自由の幽霊は、この世界から完全に締め出されるのだ。


 防壁の上。

 調律師のリーダーが、仮面の下で冷酷な審判を下した。


「……第17区画。……思想災害、フェーズ2完了。……これより、最終段階へ移行する」


 彼は、手に持っていた水晶の端末を軽く叩いた。

「――領域全体の、記憶初期化フォーマットを開始せよ。……この街が『自由を求めた』という事実そのものを、歴史の塵に帰せ」


 空から、無数の光の糸が降り注ぐ。

 それは建物の一角から、人々の持ち物から、そして脳内の記憶から、「ルードヴィヒ」という存在の痕跡を一つずつ消去していく光。


 ヨハンが、エマを振り返った。

 その瞳に、もはや親愛の情はない。


「……エマさん。……君は、どうしてそんなに苦しそうなの? ……早く、その『迷い』を捨てればいいのに。……それが、この街の、最後の正解だよ」


 ヨハンが、かつてパンを焼いていたその大きな手で、エマの首筋へと伸ばす。


「――さあ、……『救済』の時間だ」


 エマは、瓦礫の海に崩れ落ちた。


 (……パパ。……助けてなんて、言わない。……あなたが言った通り、……私は、私の意志で、……地獄を選ぶから)


 エマは、自らの爪を手の平に深く食い込ませた。

 痛み。

 管理された幸福には存在しない、鋭利な苦痛。

 それだけが、彼女をこの「美しい死の世界」に繋ぎ止める唯一の錨だった。


 エマは、懐から「未完了」と記されたあの黒い記録媒体ログを取り出した。


「……私が、……正解を壊す。……たとえ、この街の全員に、……恨まれることになっても」


 彼女は、自分自身の全存在保持率を――ルードヴィヒを現実に繋ぎ止めている最後の因果を――そのログへと流し込んだ。


 (――壊れろ。……世界中の『正解』が、……全部、壊れてしまえ!!)


 エマの絶叫と共に、黒いログが、禍々しい漆黒の光を放って炸裂した。

 それは、幸福に浸る1200人の市民全員に、無理やり「絶望」を再注入するという、史上最悪の救済措置だった。


 次話、第15話。

 『正解という名の救済、あるいは魂の安楽死』。


 幸福を奪われた市民たちが、エマに向かって牙を剥く。

 そして、暗闇の底から、ついに「彼」が帰還する。

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