第16話:観測者の埋葬、あるいは名前のない怪物
世界は、音もなく「欠け」始めていた。
王都下層、午前五時。
湿った石畳を、朝一番のパンの香りが優しく撫でていく。老舗のパン屋『銀の麦亭』では、主人のヨハンが手慣れた手つきで、焼き上がったばかりのクッペを棚に並べていた。
それは、昨日と何一つ変わらない、繰り返されるはずの平穏な朝の儀式だった。
「……ん?」
ヨハンが、ふと手を止めた。
数を確認する。自分が天板に載せたはずの数は、確かに二十四。だが、棚に並んでいるのは、どう数えても二十三しかない。
落とした形跡はない。盗まれた形跡もない。
ただ、そこにあったはずの「一」という事実だけが、最初から存在しなかったかのように、空間の記憶から抜け落ちていた。
「……勘違いか」
ヨハンは首を振った。
だが、その「勘違い」こそが、世界に穿たれた最初の風穴だったことに、彼は気づく由もなかった。
異変は、霧が晴れるようにではなく、むしろ霧が深まるように、王都全体を侵食していった。
市場の配給記録と、実際に並んでいる市民の数が、どうしても一人だけ合わない。
広場で名前を呼ばれた少年が、返事をする瞬間に、自分の名前が何であったかを思い出せず、呆然と立ち尽くす。
「君、名前は?」と問いかけた役人も、次の瞬間には「誰に問いかけたのか」を忘れ、手元の書類に目を戻す。
共通しているのは、被害者たちが皆、社会の端に追いやられた「影の薄い存在」であることだ。
天涯孤独の老人、名もなき浮浪児、誰の記憶にも留まらない街娼。
世界という巨大な織物から、端っこの綻びた糸が、一歩、また一歩と、静かに引き抜かれていく。
その「引き抜き」の源流は、王都を網の目のように走る暗い地下水路にあった。
カチ、カチ、カチ……。
湿った闇の中で、壊れた時計の歯車が噛み合わないまま回るような、不規則な音が響いている。
そこに、一人の少年が座っていた。
ボロボロの清掃服。泥に汚れた裸足。
彼は、何もしていない。
手に持った小さな小石を、ただじっと見つめているだけだ。
(……あつい。……さむい。……おなかが、すいたかな)
彼の中に、明確な悪意はない。
自分が世界を壊しているという自覚も、ましてや自分を捨てた世界への復讐心などという、高尚な感情すら持ち合わせていない。
ただ、彼は「そこにいる」だけだ。
第15話でカイルが下した決断――「記録せず、存在させない」という慈悲。
それが、皮肉にも彼を『この世界のどの法則にも縛られない特異点』へと変えてしまった。
彼は観測されない。記録されない。ゆえに、彼は「死」という因果さえも、自分の中に固定することができない。
少年が立ち上がり、一歩踏み出す。
その足が触れた水面の波紋が、物理法則を無視して逆流し、消滅した。
「……痛い……」
中央大聖堂の私室で、カイルは自身の胸を掻きむしり、床に膝をついた。
「カイル! しっかりして! 存在保持率が、……マイナスに振り切れている!」
エルナが駆け寄り、聖女の祈りを捧げるが、その光はカイルの体を透過し、何一つ癒やすことはなかった。
カイルの体の一部が、ノイズのように激しく揺らぎ、透けて見え始めている。
「……ルードヴィヒの力が、……あいつに、引っ張られているんだ」
カイルは、血の混じった唾を吐き捨てた。
一度、あの地下の少年を「観測」してしまった代償だ。
カイルの中に眠る『因果を歪める亡霊』の性質が、より巨大な「無のバグ」であるあの少年に共鳴し、自分という個体を解体しようとしている。
「エルナ、……俺たちは、取り返しのつかない間違いを犯した。……あの怪物は、……倒せない」
カイルは、震える手で聖典を指差した。
「観測すれば、あいつの『完全犯罪』という運命が固定され、世界に不可逆な穴が開く。……だが、観測しなければ、あいつは無秩序に拡大し続け、世界の存在そのものを削り取っていく。……『殺す』こともできない。死とは、生があったことの記録だからだ。……記録されないあいつには、……終わることさえ、許されていないんだ」
大聖堂の鐘が、本来の時刻ではない瞬間に鳴り響いた。
世界の「時間」という骨組みまでが、少年の接近によって軋みを上げている。
エルナは、再び『第十記録聖典』を開いた。
だが、そこに文字は現れない。
「……違うわ、カイル。……これは、災害じゃない。……世界の自己修正機構そのものなんだわ」
エルナは、戦慄と共に気づいた。
世界は、あまりにも増えすぎた「誤差」を、この少年という『消しゴム』を使って、根こそぎ消去しようとしているのだ。
少年は、復讐者ではない。
世界が、自らを「正解」だけで満たすために生み出した、究極の掃除屋。
少年は、地下水路の梯子を登り、地上へと出た。
眩い午後の太陽。賑わう大通り。
彼は、人混みの中をゆっくりと歩き出す。
肩が、一人の商人とぶつかった。
商人は「おっと、失礼」と笑って通り過ぎようとした。
だが、三歩歩いたところで、商人の体から「色彩」が消えた。
五歩歩いたところで、「形」が曖昧になった。
七歩歩いたところで、彼は最初からそこにいなかったかのように、風に溶けて消えた。
周囲の人間は、誰も気づかない。
商人が持っていた荷物も、彼がさっきまで話していた言葉も、彼を待っている家族の記憶からも、すべてが同時に、綺麗さっぱり消去されたからだ。
少年は、自分の手が少しだけ温かくなったのを感じた。
(……やっと。……やっと、しずかになった)
少年の瞳に、ほんの一瞬だけ、凍りつくような「純粋な悦び」が宿った。
彼は、自分を捨てた、自分を記録しなかった世界を、今、慈しみをもって「整理」し始めたのだ。
誰も彼を見ることができない。
誰も彼を止めることができない。
王都の中心で、少年はただ、無垢な微笑みを浮かべて立ち尽くしていた。
その背後で、王都の象徴である時計塔の針が、音もなく崩れ落ちていく。
これが、世界に拒絶された者による、最も静かな「復讐」の始まり。
次話、第17話。
『世界に拒絶された復讐者』。
カイル、死の淵での賭け。
「お前を殺すんじゃない。……俺が、お前になるんだ」




