第八話 毒入りの紅茶
王宮での生活に慣れてくると同時に、ここは決して、穏やかなだけではないのだということも、楓は少しずつ理解し始めていた。
ステファンが最初に言っていた通り、王宮の人間全てが楓を歓迎しているわけではなかった。
ステファンの配慮により、あまり表だって楓の存在は知られてはいないのだが、それでも廊下を歩けば、ひそひそと囁く声が聞こえることがある。
「ああ、あれが陛下のお気に入りの……」
「一体どこの令嬢なのかしら」
「平民だという話もありますよ」
わざと聞こえるような声で話す者もいれば、中にはあからさまに不躾な視線を向けてくる貴族もいる。
まるで値踏みをするような目で見られることも、これまで何度かあった。
けれど楓は、そういったものを出来るだけ気にしないようにしていた。
ステファンやマリア、セドリックは、突然異世界から現れた自分を守り、大切にしてくれている。
そんな彼らに何かを返せるほどの力は、まだ自分にはない。それでもせめて、あの三人にこれ以上迷惑をかけるようなことだけはしたくなかった。
だから楓は、王宮で慎ましく振る舞い、この世界のことを少しでも学ぼうと励んでいた。
*
その日、楓はステファンに誘われ、王宮の一室で共に茶を飲んでいた。
午後の陽光が大きな窓から差し込み、白いレースのカーテンを揺らしている。
丸いテーブルの上には美味しそうな焼き菓子と、香り高い紅茶が並べてあった。
ステファンは珍しく少し肩の力を抜いた様子で、向かい側に腰掛けていた。
「カエデは今日も書庫へ行っていたの?」
「うん。今、この国の建国史を読んでるところなの」
「へえ、この国の成り立ちを?」
「うん。向こうの世界と似たような制度とかもあってね、読んでて結構面白いんだよ。建国戦争の記録を読んでたら、初代国王様ってかなり苛烈な方だったみたいね」
「ああ、うん。ふふ、そうだね。建国するほどの人だから。懇意にしていた公爵家の令嬢を王妃として迎えるまでは、誰も寄せ付けないような雰囲気だったと言われているよ」
ステファンが楽しそうに話し、楓がそれに興深そうに頷く。
楓にとって、こうして二人で過ごす時間は、とても特別な時間だった。
王族としてではなく、一人の人間として笑っている今のステファンを見ると、楓の心がじんわりと温かくなるのを感じた。
給仕を終えた使用人が一礼し、静かに部屋を出ていった。
ステファンが紅茶に口を付け、楓も紅茶へ手を伸ばした。
その瞬間だった。
「カエデ」
ステファンに鋭く低い声で呼ばれ、楓は驚いたように肩を揺らし、動きを止めた。
目を瞬かせてステファンの方を見ると、彼は静かにこちらを見ていた。
「……それ、飲まないで。毒が入ってる」
落ち着いた声音だった。けれど、その碧の瞳は鋭く細められ、場に緊張が走った。
「え……?」
一瞬、意味が分からなかった。
「セドリック」
ポカンとしている楓をよそに、ステファンは、既に踏み出しかけていたセドリックへ静かに声をかけた。
「捉えろ」
ステファンがそう言った次の瞬間、セドリックの姿が風のように消えた。
扉が勢いよく開かれ、廊下の向こうから短い怒号が響いた。
「なっ……!?」
「動くな!」
楓は目を見開いたまま動けなかった。
何が起きているのか、理解が追いつかない。
その間に、ステファンは無言で部屋の端に設えられた水盆の置かれた台へ向かい、静かに口を濯ぐと、何事もなかったかのように布で口元を拭った。
まるで、最初から全て分かっていたかのような、落ち着き払った仕草だった。
やがて、部屋へ戻ってきたセドリックが、一人の男を床へ組み伏せる。
その男は、先程紅茶を給仕していた使用人だった。
男は顔を青ざめさせながらも、忌々しげに舌打ちした。
「……っ、離せ!」
「往生際が悪いな」
セドリックの声は冷え切っていた。
「牢へ入れておけ」
「はっ」
命令を受け、男はセドリックに連行されるようにして部屋を出ていった。
その光景を見送って、楓はようやく状況を理解し、背筋がぞっとした。
「……毒、だったの?」
震える声でそう呟くと、ステファンは静かに頷いた。
「うん。致死量には至らない弱めの毒だけどね」
あまりにも平然とした声音で返された言葉に、楓は思わず息を呑んだ。
「弱めって……。でもさっき少し口に含んだよね?大丈夫なの……?」
「うん。口に含んだ時は、いつもすぐ洗い流してるからね。……それに、そもそも私にはあまり効かないんだ」
さらりと言われたその言葉に、目を見開く。
「……え?」
ステファンは困ったように小さく笑った。
「昔から色々あったからね。耐性があるんだ」
その言葉は、まるで大したことではないみたいに、軽く告げられた。
けれど楓には、その意味が分かってしまった。
毒への耐性。それはつまり、これまで何度も毒を盛られてきたということだ。
胸の奥が、ぎゅっと痛んだ。
八歳の頃、自分のことを“いらない子”だと言っていた少年。
誰にも守られず、孤独の中で生きていたあの子は、こんなものにまで慣れなければならなかったのだ。
これまで、いったいどれほど過酷な人生だったのだろう。どれほどの恐怖と戦ってきたのだろう。
そう思った瞬間、視界が滲んだ。
「……カエデ?」
ステファンが少し驚いたようにこちらを見る。
楓は唇を噛み締めた。溢れ出る涙が、ぽろりと頬を伝った。
「なんで……そんな普通みたいに言うの……」
震える声が漏れる。
「毒なんて……そんなの、おかしいよ……!」
胸が苦しかった。
ステファンは毒を口に含んで以降も、始終冷静だった。
けれどそれは、慣れてしまったからだ。
こんな恐ろしいことを、よくあることとして受け入れなければ生き残れなかったのだ。
その事実が、楓にはたまらなく辛かった。
(……だけどもし、ステファンに耐性が無かったら、どうなってたの……?)
もしも彼に耐性が無くあの毒が効いていて、彼の身に何かあったらと考えると、恐怖で全身が震えた。
「っ……」
呼吸が浅くなり、身体が冷えていく。
怖い。
今さらのように、その現実が楓を襲った。
ここは、命が狙われる世界なのだ。
ステファンはそんな場所でずっと生きてきたのだと、突きつけられるように理解した。




