第七話 心の変化
王宮での生活にも、少しずつ慣れてきた頃のこと。
その日も楓は、いつものように王宮の書庫で本を読んでいた。
異世界転移について記された古い文献を探していたはずなのに、気付けばこの国の歴史書や政治に関する本まで読み漁るようになった。
最初はただ、元の世界へ戻る方法を探すためだった。
けれど今は、それだけではない。ステファンが生きているこの国を、もっと知りたいという気持ちが強くなっていた。
「……カエデ様?」
不意に声を掛けられ、顔を上げる。
そこには、少し困ったような顔をしたマリアが立っていた。
「どうしたの?」
「それが……」
マリアは言いにくそうに少し言葉を濁した。
「実は陛下が、まだ昼食を召し上がっておられなくて」
「え?」
時計代わりの砂時計を見ると、確かにもう昼を大きく過ぎている。
「こんな時間になってもまだ食べてないの?」
楓が呟くと、マリアは小さく頷いた。
「ええ、ここのところ、ずっとなんです。お忙しいのは分かりますが、これではお身体がもちません」
王になって以降、ステファンの仕事量は急激に増えたらしい。
兄王子達の派閥争いによって乱れた国内情勢、不安定になった治安、貴族達の思惑。さらには、王として必要な知識や政務の習得。
二十歳になったばかりの青年が背負うには、あまりにも重すぎるものばかりで、食事を取る時間も惜しいようだった。
マリアは困り果てた様に眉を下げ、続ける。
「……そこで、ご相談なのですが……。カエデ様から一言言っていただければ、陛下もお食事をとっていただけるのではないかと思いまして……」
楓は本を閉じると、そっと立ち上がった。
「分かったわ。……マリア、教えてくれてありがとう。私、ちょっと様子見てくるね」
それを聞いたマリアは、安心したように笑った。
ステファンの執務室の前には、セドリックが立っていた。
「カエデ様」
「ステファンは、まだ中にいるの?」
「はい」
頷いた後、セドリックは少しだけ苦笑する。
「ですが、カエデ様でしたらお通ししても問題ないかと。……陛下をお願いします」
その言葉にうん、と頷くと、楓は扉を軽くノックした。
「ステファン? 入ってもいい?」
数秒後。
「……カエデ?」
驚いたような声が返ってきた。
扉を開けると、そこには大量の書類に囲まれたステファンの姿があった。
机の上に積み上げられた書類の山を前にして、ステファンは疲れたように目元を押さえていた。
「うわ……」
思わず声が漏れる。
ステファンは困ったように笑った。
「少し散らかっていてごめんね」
そう言って申し訳なさそうに笑うステファンを見て、楓は眉を寄せた。
「そんなこと気にしなくていいよ。それよりステファン、大丈夫?」
「え?」
「すごく疲れてる顔してるよ」
一瞬、ステファンが目を瞬かせる。
けれどすぐに、困ったように小さく笑った。
「……隠せてるつもりだったんだけどな」
「隠そうとしないでよ」
楓は心配そうに彼を見上げる。
「ねえステファン、お昼ご飯、まだなんでしょ?」
「……聞いたんだ。その感じは、マリアかな?」
「うん、そうだよ。駄目だよ、ちゃんと食べなきゃ」
楓が眉を寄せると、ステファンは少しだけ視線を逸らした。
「……ここにある分は今日中に終わらせたくて、つい」
「つい、じゃないでしょ」
思わず少し強めな口調で言い返す。
「身体壊したらどうするの」
すると、ステファンは一瞬きょとんとした顔をした。
それから、どこか嬉しそうに目を細める。
「ふふ、怒られちゃった」
「そりゃあ怒るよ。心配だもん」
楓がそう言うと、ステファンはほんのり頬を赤らめて、とても幸せそうな笑顔を浮かべた。
その柔らかな笑顔が、昔、鏡越しに笑っていた少年の頃の面影と重なって、なんだか可愛く思えてしまった。
楓はふと、机の上の書類に目を落とした。
「これ、全部今日やるつもりなの?」
「うん、出来れば」
「……流石に無茶じゃない?」
「そうかもしれないね」
さらりと言ったその言葉には、どこか諦めのようなものが混じっていて、楓は言葉を失った。
「でも、兄達が残した問題が想像以上に多くてね」
ステファンは静かに言った。
「地方貴族同士の衝突も増えているし、治安もまだ安定していない。それで一番苦しむのは、何の罪もない人達だからね。出来る限り、早く整えたいんだ」
その顔は、とても真剣だった。
ステファンが、国民が安心して暮らせる国を作りたいと本気で考えていることを改めて実感し、楓は胸の奥が熱くなった。
ただ王位を継いだだけではなく、彼は、正しくこの国を背負おうとしている。
その姿が、どうしようもなく眩しかった。
「ステファン」
「ん?」
「……やっぱり、あなたは立派な王様ね」
ステファンが少し驚いたように目を見開く。
楓は続けた。
「とても大変なのに、ちゃんと国のこと考えてるもの。皆が安心して暮らせるようにって、本気で頑張ってる」
ステファンはしばらく静かに楓を見つめて、そして小さく笑った。
「……カエデは、昔からそうやって真っ直ぐ言ってくれるね」
「だって本当のことだもの」
すると、ステファンは少しだけ目を伏せた。
「君にそう言ってもらえると、頑張ろうって思える」
その声があまりにも優しくて、楓の胸が小さく締め付けられた。
「ふふ、うん、だったら嬉しいな。けどね、その為にもまずはちゃんと、ご飯食べよう?」
楓がそう言うと、ステファンは一瞬きょとんとした後、ふっと笑った。
「……うん、そうだね」
素直に頷く姿に、楓は少し安心する。
「それじゃあ、行こ」
「うん」
ステファンは椅子から立ち上がった。
長時間座っていたせいか、僅かに肩を回している。
楓はそんな様子を見て、また胸が痛くなった。
どれだけ忙しくても、弱音を吐かない。
全部一人で抱え込もうとしてしまう。
昔から優しい人だったけれど、今のステファンは、それ以上に沢山のものを背負って立っているのだ。
執務室を出ると、待機していたセドリックが静かに頭を下げた。
「少し席を外すよ」
ステファンのその言葉に、セドリックはほんの僅かに安堵したような表情を見せた。
廊下を並んで歩きながら、楓はふと口を開いた。
「皆、ステファンのこと心配してるんだよ」
「……そうかな」
「そうだよ。マリアもすごく気にしてたし」
すると、ステファンは少しだけ困ったように笑った。
「心配をかけてしまっているなら、駄目だね」
その声音がどこか申し訳なさそうで、楓は思わず言った。
「ううん、それは違う。むしろ、頼ってもいいんだよ」
ステファンが足を止める。
「え?」
「全部一人で頑張るんじゃなくて、ステファンはもっと周りに頼っていいと思う」
楓が真っ直ぐ見上げると、ステファンは一瞬、驚いたような顔をした。
それから、少し照れたように笑う。
「……努力するよ」
その笑顔が優しくて、楓もつられるように笑った。
食堂へ向かうその短い道のりが、なぜだかとても穏やかで、心地良く感じられた。
※
最近、自分はどこかおかしい。
ステファンが笑うと嬉しい。疲れていると心配になる。無理をしている姿を見ると、少しでも支えたいと思う。
それは昔から変わらないはずなのに、最近はそれだけではない気がしていた。
彼を目の前にすると、幼い頃、鏡越しに話していた時とは違う、胸の奥がじんわりと熱くなるような、不思議な感覚があるのだ。
この感情は何なのだろうと思うと同時に、楓の胸に、別の想いも浮かんでいた。
(……ずっとここに居れたらいいのに)
元の世界へ帰る方法を探しているはずなのに、このままステファンのそばに居続けたいと願ってしまっている自分がいる。
けれど楓は、その気持ちをそっと胸の奥へ押し込める。
(……これ以上、彼の重荷を増やしたくないもの)
ステファンは、本当に優しい。
だからこそ、これ以上彼に寄りかかってはいけないと思った。
彼はもう、十分すぎるほど多くのものを背負っているのだから。




