第三十六話 アルベルト殿下
法令講義を終えた頃には、窓の外の陽がゆるやかに傾き始めていた。
楓は静かに息を吐く。
今日の講義内容は、領地運営に関する法整備と税制度についてだった。
難しい内容ではあったが、教えてくれた法務官の説明は分かりやすく、しっかりと内容を理解出来た。
少しずつだが、自分も前に進めていると、そう思えたのに、胸の奥の重たさは消えてくれなかった。
「……」
脳裏に浮かぶのは、先ほど見た光景だった。
ステファンとロザリア王女が並んで話している姿。
自然で、堂々としていて、まるで最初から隣に立つことが決まっていたかのような二人の姿が、頭から離れない。
楓は気持ちを切り替えようと、小さく首を振った。
講義室を出た後、そのまま王宮の中庭へ足を向けた。
石畳の中央には小さな噴水があり、水音だけが静かに響いている。
普段なら、この静けさが気持ちを落ち着かせてくれる。
けれど今日は、胸のもやもやが消えることは無く、楓はそっとため息を吐いた。
「なあ、大丈夫かよ?」
その時、不意に後ろから声を掛けられ、楓は驚いて振り返った。
そこに立っていたのは、アルベルト・ガルディア王子だった。
燃えるような赤髪を後ろで一つに束ね、緑色の瞳がこちらを覗き込んでいる。
「アルベルト殿下……」
「なんか元気ないですね」
少し眉を下げながら言われ、楓は思わず苦笑した。
「そう見えますか?」
そう聞くと、間髪入れずに「うん」と頷かれた。
アルベルトはじっと楓を見ると、ふっと口元を緩める。
「この前、街で会った時はあんなに思い切りが良かったのに、今日はなんか、しおらしいんですね」
「……っ」
その言葉に、楓は一気にあの日のことを思い出す。
街の男の子が落とした果物を、変装した彼が一緒に拾ってくれたのだ。
「あの時は、本当にありがとうございました。助かりました」
「いや、それは別に構わねえですけど」
アルベルトはそう言った後、口元に少し笑みを浮かべ、言葉を続けた。
「でも、異世界からの来訪者っていうのは、みんなあんたみたいな感じなんですか?」
彼が楓が異世界転移者だと知ったのは、王宮で互いに挨拶を交わした、そのすぐ後のことだった。
珍しい黒髪に目を留めたアルベルトが、その出自について詳しく尋ねようとしたため、ステファンが慌てて割って入り、楓が異世界から来た人間であることを説明したのである。
ガルディア王国には古くから異界の来訪者にまつわる伝承が残っているらしく、アルベルトはその話をすんなり受け入れた。
もっとも、「本当に実在していたのか」と、目を見開いて驚いてはいたけれど。
「……私みたいな、とは?」
彼の質問の意図が分からず、聞き返す。
「見知らぬ子どものために、ためらいもなく川へ入っていくようなお人よしなのかってことですよ」
そう言われ、楓は思わず言葉に詰まってしまった。
「……」
「まさかあの時の娘が、アストレア王の婚約者だとは思わなかったですね」
どこか愉快そうにそう言われ、楓は頬を染めた。
「あの時の私の行動については……忘れていただけるとありがたいのですが……」
あの時は、落ち込んでいる男の子を放っておけなかった。
だから川に入って行ったことを後悔はしていない。けれど、王妃教育を受けている身として褒められた行動ではないのも確かだった。
あの後、マリアにもステファンにも注意されてしまったことを思い出し、居た堪れない気持ちになってそう言った。
するとアルベルトが吹き出す。
「いや、あんなの忘れられるわけないでしょう」
「うぅ……」
完全に面白がられている。
これ以上この話を続けられてはたまらないと思い、楓は話題を変えることにした。
「それで言うと、アルベルト殿下こそ、なぜあのような格好で街にいらしたのですか?」
「ああ、あれは、この国のことをちゃんと知りたかったからです」
アルベルトはこともなげに答えた。
「国を……?」
「王族の格好をしてると、本当の姿は見えないですからね」
緑色の瞳が、真っ直ぐ前を見据える。
「王族にはみんな取り繕うんでね。ま、気持ちは分かりますが。平民のふりをして歩いた方が、民の顔がよく見えるんです」
その声音は、先ほどまでの軽さとは違っていた。
「よくやるんですよ。街の空気とか、人の顔とか、店の様子とか、そういうもんを平民として見る方が、国の状況がよく分かるから」
楓は小さく目を見開いた。
王太子として、ただ与えられた報告だけを見るのではなく、自分の目で国を見る。
その考え方に、自然と納得した。
「なるほど……」
「ここはいい国ですね」
アルベルトは楽しそうに笑った。
「ステファン様は、ちゃんと正しい政治をしてるって、民の顔を見てれば分かる」
その言葉に、楓の胸がふわりと温かくなった。
ステファンのことを認めてもらえたことが嬉しくて、自然と笑みが溢れる。
「……ありがとうございます」
「なんであんたが礼言うんですか」
「だって、嬉しかったので」
そう返すと、アルベルトは一瞬だけ目を丸くした後、ふっと笑った。
そして少し視線を遠くへ向ける。
「父上は武力を重視する政治をしてる」
先ほどより低い声だった。
「けど俺は、それだけじゃ、いずれ立ち行かなくなると思うんです。……だから、この国との繋がりは大切にしたいと思ってるんですよ」
その言葉に、楓は静かに耳を傾けた。
ガルディア王国は軍事大国だ。
力による勢力拡大を重視しているという話も聞いている。
けれど、アルベルトは違う未来を見ているのだろうと思った。
「……妹も、立場は違えど同じ考えを持っています」
そう言って、アルベルトが苦笑した。
「だからステファン様に近づいてるんです」
その言葉に、楓の胸が小さく痛んだ。
「妹がすみません」
「いえ……」
楓は首を横に振り、続ける。
「王族として、他国との繋がりを重視するのは、とても大切なことだと分かっていますから」
それは本心からの言葉だった。
ステファンも、ロザリア王女もどちらも王族だ。
国のために動くのは当然で、感情だけで全てを決められる立場ではないと、分かっている。
分かっているのに、それとは裏腹に、胸の奥は苦しかった。
そんな楓を見つめながら、アルベルトは少しだけ目を細めた。
緑色の瞳が、どこか苦しげに揺れる。
「……あんたは、本当に優しいんだな」
まるで何かを堪えるように、一度だけ小さく息を吐いた後、低い声が落ちる。
そしてさらにアルベルトが口を開きかけた、その時だった。
「カエデ様!」
聞き慣れた声が響く。
はっとして振り返ると、少し慌てた様子のマリアがこちらへ歩いてきていた。
「探しましたわ」
その瞬間、アルベルトは纏う雰囲気を一瞬で元に戻した。
「カエデ嬢、俺が言うのもなんですが、まあ、その……元気だしてくださいよ。あんたが元気ないと、なんか調子狂うんで」
そしてへらっとした笑顔で笑った。
そして何事もなかったように背を向けると、その場を去っていった。
楓はただ、その後ろ姿を見つめることしかできなかった。




