第三十二話 川辺の出会い①
その日も楓は、朝から机に向かっていた。
読み終えた資料を閉じ、楓はそっとこめかみを押さえた。
集中し続けていたせいで、頭がじんわりと重い。
王宮の書庫で学んでいた頃は、ただ知識を得るだけで良かった。
けれど実際の政治や外交、貴族社会は、それより遥かに複雑で、一筋縄ではいかない。
どの家がどの派閥と繋がっているのか、どんな言葉が外交問題に発展しかねないのか、どのような振る舞いが、王家の品位として求められるのか。
知れば知るほど、王妃という立場の重さを思い知る。
もちろん、それを嫌とは思っていない。
ステファンの隣に堂々と胸を張って立つために、楓は必死に学んでいる。
けれどそれでも、疲れるものは、疲れるのだ。
ふう、と息を吐いた時、
「カエデ様」
ふいに、マリアが柔らかな声を掛けてきた。
「今日はそこまでになさって、たまには息抜きをいたしませんか?」
「え、息抜き……?」
「あまり根を詰めますと、頭も疲れてしまいますわ」
くすりと笑われ、楓は思わず机に突っ伏した。
「……うん、頭使い過ぎてちょっと痛いかも……」
「あらあら」
マリアは気遣わしげに微笑む。
「でしたら、気分転換に街へ出てみませんか?」
「え……街に!?」
ぱっと顔を上げる。
楓が異世界に来てから、自由に街を歩けるのはこれが初めてのことだ。
楓はステファンが守り、より良い国にしようと心血を注いでいるこの国を、自分の目で見てみたいと、これまでずっと思っていた。
どんな街並みなのか。人々はどんなふうに暮らしているのか。
想像するだけで胸が高鳴り、楓は思わず身を乗り出した。
「いいの?行ってみたい!」
「ええ。カエデ様はそう言われると思っていましたわ。……ですが、もちろん変装は必要です。カエデ様の美しい黒髪は、この国では目立ってしまいますもの。陛下からも、外出の際は必ず変装をするようにと、仰せつかっておりますわ」
そう言って微笑むマリアに、楓は納得したように頷いた。
そもそもこの国で黒髪の人間は自分以外に未だ見たことが無い上に、楓の姿が、この国で広く知られる御伽話の、『黒髪の女神と寂しい王子』に登場する女神によく似ているからだ。
マリアが用意してくれたのは、普段の豪奢なドレスではなく、街娘が着るようなシンプルな服だった。
淡い生成り色のワンピースに、落ち着いた色の上着。
目立ってしまう黒髪は、この国の平民によくある、茶色の髪色の鬘を被り誤魔化した。
鏡に映った自分を見て、楓の頬が自然と緩む。
「ちゃんと街の娘に見える?」
「ええ、うまく変装できていますわ。……ですがやはりカエデ様のお可愛らしさまでは隠しきれませんでしたわね」
そう言って微笑んでくれるマリアに、楓は照れ臭くなってはにかんだ。
そう言うマリアも、今日は落ち着いた服装に身を包み、茶色の鬘で美しい亜麻色の髪を隠していた。
こうして見ると、まるで歳の近い姉妹のようで、嬉しい気持ちになった。
そして二人して屋敷を出ると、楓の胸は一気に高鳴った。
王都の街はとても賑やかだった。
美しい石畳で舗装された道沿いには露店が並び、焼きたてのパンの香りと、人々の楽しそうな笑い声が溢れている。
祭が近いこともあり、街全体が、どこか浮き立っているように感じた。
「わぁ……」
楓は思わず辺りを見回す。
「カエデ様、楽しそうですわね」
「うん、すごく楽しい!マリア、本当にありがとう」
返事をする声が明るく弾む。そんな楓を見て、マリアは優しい笑顔で頷いてくれた。
アクセサリーを売る店や、色鮮やかな布地、見たことのない果物など、何を見ても新鮮で、見ているだけで楽しかった。
そうして楽しく歩いているうちに、二人は川沿いの道へ出た。
王都を横断するその大きな川は、陽光を反射して、水面がきらきらと輝いていた。
川沿いには風が通り、のんびり歩くと、とても心地良かった。
「気持ちいい……」
楓が小さく息を吐いた、その時だった。
「あっ!」
慌てたような子どもの声が響いた。
見ると、大きな紙袋を抱えた男の子が石畳につまずき、盛大に転んでいた。
つまずいた拍子に袋から果物が転がり落ちる。
「大丈夫!?」
楓は咄嗟に駆け寄った。
「いたた……」
幼い少年は泣くのを我慢しているのか、目元を少し赤くしている。
楓は優しく手を差し出した。
「立てる?」
「……うん」
小さな手を引いて起こしてあげる。
その間にも、赤い果物がころころと道へ転がっていった。
「わっ、待って……!」
楓は慌てて拾い始める。
すると不意に、視界の端へ、別の手が伸びてきた。
その人物が拾い上げた果物が、そっと楓へ差し出される。
「はい、どーぞ」
「あ、ありがとうございます」
顔を上げると、そこには見覚えのない男性が立っていた。
肩ほどまで伸びた茶髪を、無造作に後ろで一つに束ねている。
凛々しい眉の下にある緑色の瞳が、ほんの僅かに和らいでいた。
年齢は二十代半ばくらいだろうか。
服装は動きやすい簡素なものだが、妙に様になっている。
その風貌は、街で働く青年という印象を受けた。
「ありがとうございます」
「ん、気にすんな」
短く返されたその言葉は、少しぶっきらぼうにも聞こえるが、不思議と冷たさは感じなかった。
楓は受け取った果物を、男の子へ渡した。
「はい。もう大丈夫?」
「……えっと……」
少年はしょんぼりと肩を落とし、川の方に視線を向けた。
「どうしたの?」
「何個か、川に落ちちゃって……」
見ると、赤い果物がいくつか水面を流れていた。
まだ遠くへは流されていない。
「ああ、まだ取れそうね」
楓はそう言うと、さっと靴を脱いだ。
「カエデ様!?」
マリアがぎょっとした声を上げる。
「大丈夫よ。実はこういうの、慣れてるの」
「だとしても危険ですわ!お待ちくださいませ!」
マリアの制止も聞かず、楓はそのまま川へ入っていった。
冷たい水が足首を包む。
川の流れはそこそこあるが、思った通り浅い。
少し気を付ければ問題なさそうだった。
楓は裾を持ち上げながら、水に浮かぶ果物を拾っていく。
その様子を見た男の子が、ぱっと顔を明るくした。
「お姉ちゃんすごい!」
「えへへ」
楓は笑いながら岸へ戻ろうとする。
だが、その瞬間、足元の石がぬるりと滑った。
「えっ」
ぐらりと身体が傾く。
咄嗟に踏ん張ろうとしたが、足を取られる。
あ、これはまずいと、そう思った瞬間、不意に、ぐっと身体を支えられた。
驚いて顔を上げる。
そこには、先程の茶髪の男性が立っていた。
彼の緑色の瞳が、呆れたように細めらる。
「危なっかしいなぁ、あんた」




