第三十一話 婚約者としての日々
そうして楓のルヴァイン公爵家での生活が始まった。
ルヴァイン公爵夫妻は、マリアが言っていた通り、楓を心から歓迎してくれた。
特に公爵夫人は、娘ができたら一緒にしたいと思っていたことが沢山あったらしく、ドレスや髪飾りを選びながら、「今日はどれが良いかしら?カエデはなんでも似合うから、選びがいがあるわ」と楽しそうに目を輝かせていた。
その優しさに触れるたび、楓は自分が新しい家族に迎え入れられたのだと実感して、心がじんわりと温かくなった。
そして、それからの日々は、想像以上に忙しいものでもあった。
公爵家と王宮を行き来しながら、本格的な王妃教育と貴族教育に追われていた。
朝は礼儀作法を学び、昼には各国の情勢や外交についての知識を身につけ、夜には公務や式典での振る舞いを確認する。
王宮で生活していた頃、書庫で読んで得た知識とは比べものにならないほど、実際の国政や貴族社会は複雑で、なかなか一筋縄ではいかない。
「王妃になるのって、本当に覚えることが多いのね……」
机に突っ伏しながら呟くと、マリアが苦笑する。
「ええ。王妃とは、国の顔でもありますから」
それぞれの分野を専門とする教師達は優秀で、決して厳し過ぎるわけではない。
彼らにはステファンから楓が異世界から転移してきた存在であることを伝えているため、その事情も考慮して、とても丁寧に教えてくれている。
おかげで理解はしやすかったが、やはり覚える量は膨大だった。
けれど、楓はそれを嫌だとは全く思わなかった。
それは、今している全部のことが、ステファンの隣に立つためのものだからだ。
彼の隣で生きていく、その未来を、楓はもう迷わず望んでいた。
一方、ステファンもまた、多忙を極めていた。
アストレア国では、毎年この時期になると、建国を祝う大規模な祭が開催される。
その祭は、王都全体を巻き込む一大行事であり、準備には膨大な人員と時間を必要とする。
それに加えて今年は、先日不可侵条約を締結したガルディア王国から、王子と王女が視察に訪れることになっていた。
名目上は祭の見物と銘打っているが、実際には両国の友好関係を示すための外交的意味合いが強い。
本来の王としての公務をこなしながら、祭の準備に加え、その来訪への対応もして、ステファンは休む暇もないほどに、働き詰めのようだった。
だから最近は、数日顔を合わせられないことも珍しくない。
彼は王様なのだから忙しくて会えないのは仕方ないことなのは分かっているつもりだ。
けれど気持ちが通じ合って以降、自分は随分と欲張りになってしまった気がする。
会えないだけで、こんなにも寂しい。
忙しい彼を困らせたくはないのに、それでも会いたいと願ってしまう自分に、少しだけ苦笑した。
夜遅くまで続いた講義を終え、自室へ戻った楓は、小さく息を吐いた。
「……会いたいな……」
つい零れてしまった本音に、楓は小さく首を振った。
だって、ステファンはもっと大変なのだ。
自分の寂しさばかりを考えるのは違う気がした。
(今もまだ、王宮で仕事をしてるのかな……)
そう考えた時、不意に扉が叩かれた。
「カエデ様」
扉の外から聞こえたのは、マリアの声だった。
「はい?」
「陛下がお見えです」
一瞬、楓は言葉を失った。
「……え?」
心臓が急にうるさくなり、慌てて立ち上がった。
サッと前髪を整えて急いで扉へ向かうと、その向こうに立っていたのは、本当にステファンだった。
彼は、黒を基調とした正装姿でそこに立っていた。
少し疲れているようにも見えるが、それでも彼は楓を見ると柔らかく微笑んだ。
「こんばんは、カエデ」
「ステファン……!」
久しぶりの彼の姿に、思わず手を伸ばしそうになり、はっとして止めた。
廊下には使用人もいる。楓は慌てて腕を下げ、はにかんで笑った。
「お疲れ様、ステファン」
すると楓の行動に何かを察したステファンが、少しだけ残念そうな顔で優しく微笑んだ。
その一連の流れを見たマリアが、静かに一礼した。
「では、わたくしはこれで」
扉が閉まり、部屋に二人きりになる。
その途端、ステファンが楓を抱き寄せた。
「……っ」
広い胸に包み込まれる。
強く、それでいて壊れ物を扱うような優しい腕だった。
「会いたかった」
耳元で、低い声が落ちた。
その一言だけで、胸がいっぱいになる。
「私も……会いたかった」
ぽつりと返すと、抱き締める腕に少しだけ力が籠った。
「最近、全然時間が取れなくてごめん」
「……ううん。忙しいの分かってるから。忙しいのに、来てくれてありがとう」
「いや、私が君に会いたいんだ。君の顔を見ると安心する」
ステファンはそう言って、そっと楓の髪に口づける。
触れるだけの優しいキス。
けれどそこに滲む愛情が、苦しくなるほど伝わってきた。
彼から伝わってくる熱に、楓も素直になっても良いのかもしれないと、思えた。
「……寂しかった」
思わず零れた本音に、ステファンが僅かに目を細めた。
「うん」
「数日会えないだけなのに、変だよね」
「全然変なんかじゃないよ。……私も同じだから」
その言葉に、胸が熱くなる。
ステファンの指先が、そっと楓の頬に触れた。
優しく撫でるように滑り、髪を掬う。
「カエデ」
熱を帯びた低い声で名前を呼ばれ、脳が甘く痺れる。
そのまま、そっと唇が重なった。
ちゅ、ちゅ、と角度を変え、何度も優しく重ねられる。
柔らかな熱が、少しずつ楓の思考を溶かしていく。
「……ん……」
小さく息が漏れる。
するとステファンは、愛おしそうに目を細め、今度は少し深く、唇を重ねた。
啄むようなキスを繰り返しながら、彼は楓を抱き締める。
広い腕の中は、驚くほど安心する。
王として、常に冷静で強くあろうとする彼が、楓に触れる時だけはこんなにも優しい。
その事実が、どうしようもなく幸せだった。
名残惜し気に唇が離れる。
額が触れ合うほど近い距離で、ステファンが楓を見つめている。
「……カエデ、好きだよ」
掠れた声で告げられるその声に、楓の胸がぎゅっと締め付けられる。
「私も……大好きよ」
答えると、ステファンはどこか安堵したように笑った。
彼の笑顔を見て、楓は強く思う。
(この人を、支えたい。彼が、少しでも幸せだと思えるように、これから先、ずっと傍にいたい)
ただ好きなだけではない。
これから先、幸せな時も、苦しい時も、どんな時も全部一緒に生きていきたい。
その想いが、以前よりずっと強くなっていることを、楓は自覚していた。
楓はそっとステファンの背中に腕を回す。
すると彼は一瞬ピクッと肩を震わせた後、もう一度、優しく抱きしめ返してくれた。
彼の温もりを感じながら、楓は静かに彼の胸へ頬を寄せた。




