第三話 そして異世界へ
ステファンの居る世界と繋がるのは、昼の時間だけだった。
だから楓は、夏休みが終わるまで、毎日のように、昼食を急いで済ませ、誰にも見つからないように離れの奥へ向かった。
鏡の向こうで待っているステファンと話す時間が、今では何よりも大切なものになっていた。
ステファンもまた、楓が来るのを楽しみにしてくれていた。
『カエデ、今日は遅かったね』
「叔母さんに捕まっちゃって」
『捕まるって?』
「うん、お手伝い要員にされたの」
『あはは、……それは大変だったね』
そんな他愛のない会話をして、一緒に笑う。
その時間だけは、楓もステファンも、一人ぼっちじゃなかった。
けれど、そんな楽しい時間は永遠には続かなかった。
夏休みが終わり、新学期が始まった。
平日は学校があるため、離れへ行く時間が取れなくなったが、楓は土日になればまた会えると思っていた。
だから最初の土曜日、楓は少し浮き立つ気持ちで離れへ向かった。
「ステファン?」
いつもの様に鏡の前で呼びかけたが、返事はなかった。
鏡には、楓自身の姿しか映っていない。
「……あれ?」
不思議に思いながら、もう一度呼ぶ。
「ステファン、いる?」
やはり返事はない。
静まり返った離れの中で、楓の声だけが虚しく響いた。
そして、次の日も、その次の週も、鏡が繋がることはなかった。
楓は鏡の前で何度も声をかけた。
けれど、どれだけ待っても、鏡の向こうに金色の髪の少年が現れることはない。
たった一夏の出来事だったのに、ステファンと話せないだけで、胸にぽっかり穴が空いたようだった。
それと同時に、心配でもあった。
(あの子、ちゃんと笑えてるかな。また泣いてしまってないかな)
気がつくとそんなことばかり考えてしまう。
けれど、楓にはもう、どうすることも出来なかった。
そうして季節は巡り、状況は何も変わらないまま、楓は高校三年生になった。
相変わらず、この家での居場所はなく、この家で過ごす日々はずっと息苦しいものだったが、中でも楓を怯えさせたのは、歳の離れた従兄弟だった。
最初は気のせいだと思うようにして、やりすごしていた。
まるで値踏みする様に見てくるねっとりとした視線や、肩や腰に触れてくる手に、楓は徐々に恐怖を覚えるようになった。
そして高校三年の夏休み、遂にそれは起こった。
その日は、屋敷にほとんど人がいなかった。
使用人たちも外へ出払っていて、妙に静かだったのを覚えている。
「楓ちゃん」
背後から声をかけられ、楓は肩を震わせた。
振り返ると、従兄弟がニタニタとした笑みを浮かべてすぐ後ろに立っていた。
「最近、俺のこと避けてるよね?」
じり、と距離を詰められる。
「……そんなことありません」
そう答えて離れようとした瞬間、腕を掴まれた。
「っ……!」
「楓ちゃんって、ほんと顔だけは可愛いよな。身体つきもよく見たら……」
舐めるような視線に、ぞくりと背筋が震えた。
怖い。
本能的にそう思った。
振り払おうとしても、力が強くて離れない。
「や、やめてください……!」
「大丈夫だって。大したことはしないから」
その言葉が、余計に恐ろしかった。
楓は必死に腕を振りほどくと、逃げるように廊下を駆け出した。
背後から楓を呼ぶ声が聞こえる。
追いかけてくる足音に、恐怖で息が詰まりそうになる。
そして気付けば、楓は離れの部屋へ飛び込んでいた。
勢いよく扉を閉め、震える身体で後ずさる。
「はっ……は……」
恐怖で涙が滲んだ、その時だった。
ふと、目の前の鏡が淡く光っていることに気が付いた。
「……え?」
ドキンと心臓が跳ねた。
信じられない思いで鏡を見る。
楓は息を呑み、そして次の瞬間、縋るように叫んでいた。
「ステファン……!」
その時、鏡が一気に眩く光った。
「え……!?」
白い光が視界を埋め尽くす。
あまりの眩しさに、楓は思わず目を閉じた。
直後、身体がふわりと浮くような感覚に包まれる。
そして次の瞬間、足元に先程までとはどこか質感の違う、硬い感触があった。
「……っ」
恐る恐る目を開くと、そこに広がるのは見慣れた離れではなかった。
見たこともないほど広い部屋。高い天井には豪奢な装飾が施されている。
そして目の前では、楓を取り囲む騎士達が、一斉に剣を向けていた。
「動くな!」
「お前、何者だ!?」
激しい怒鳴り声と共に剣先を突き付けられ、楓は息を呑んだ。
けれど、その時、
「待て!!全員剣を下せ」
低く、鋭い声が響いた。
その一声で、騎士たちが一斉に動きを止める。
立ち並ぶ騎士たちの最奥に立つ人物を見て、楓は目を見開いた。
そこに居たのは、透き通るような金の髪に、鋭さを帯びた碧の瞳を持つ、とても美しい青年だった。
その人が、信じられないものを見るように楓を見つめる。
「……カエデ、なのか?」
少し震えた声で名を呼ばれた瞬間、楓の胸が熱くなる。
成長して姿は変わっていても、楓には分かった。
「……ステファン」
涙が溢れそうになるのをグッと堪えながら呼びかける。
すると青年は目を見開き、それから泣きそうな顔で微笑んだ。
「ああ……」
そして一気にこちらへ近付いてくると、そのままぎゅうっと強く抱きしめられた。
「カエデ……会いたかった」
その言葉に、楓の視界が滲んだ。
(良かった、また会えた)
そう思った瞬間、張り詰めていたものが切れたように、楓の瞳から涙が零れ落ちた。
その場に、ざわりと動揺が走る。
「……本日の会議はここまでとする」
低く、よく通るステファンの声がその場に響いた。
その瞬間、ざわついていた空気が一気に張り詰めたのが分かった。
楓はステファンの胸に抱き込まれたまま、恐る恐る周囲を見る。
ずらりと並ぶ騎士達が、自分の事を怪訝な目で見ている。
突然、何もない空間から現れた少女を、この国の王子がいきなり抱き締めたのだ。
混乱しない方がおかしい。
「先ほど出た案件は、各自再検討を。後日、改めて議論の場を設ける」
ステファンは落ち着いた声でそう告げながらも、楓を抱く腕を一度も離さない。
そのことが、少しだけ心強かった。
「詳しい説明は後日行う」
静かな声が続く。
「彼女は、私の古くからの知人であり、大切な人だ」
その言葉に、途端に空気がざわめいた。
(……大切な人)
楓は彼の言葉に、胸の奥がジンと熱くなった。
けれど同時に、周囲の視線が一気に鋭さを増した気がして、楓は思わずステファンの服を掴んだ。
すると、それに気付いたのか、抱き締める腕に少しだけ力が込められる。
「それから、今ここで見たことは、私の許可なく口外するな」
先ほどまで楓へ向けられていた柔らかな声とは違う。
静かなのに、有無を言わせない響きだった。
「はっ!承知しました」
騎士達が一斉に頭を下げる。
その光景に、楓は息を呑んだ。
鏡越しに話していた頃から、ステファンが王子なのだとは分かっていた。
けれど今、目の前にいる彼は楓の知っている優しい少年であると同時に、多くの人を従える王族なのだと、はっきり理解させられる。
すると、不意に頭を優しく撫でられた。
「大丈夫」
耳元で、穏やかな声が落ちる。
「私がいるから」
その一言だけで、不思議なほど安心した。
先程まで状況が分からず、ただ怖くて混乱していたはずなのに、今はステファンが触れてくれた箇所から、身体が温かくなってくるのを感じた。




