第二話 大切な居場所
それからというもの、楓は夏休みの間、毎日のように離れへ通うようになった。
離れはほとんど誰も近寄ることがなくいつも静かで、楓にとって、そこはとても安心出来る場所になっていた。
すっかり馴染んだ少し埃っぽい空気と古びた木の匂いにほっとして一つ息をつくと、部屋の奥に置かれた大きな鏡の前に立つ。
「ステファン、いる?」
そう声をかけると、少し遅れて鏡の向こうからぱっと顔が現れる。
『カエデ!』
その瞬間、嬉しそうに表情を輝かせるステファンを見ると、楓も自然と笑顔になった。
最初は恐る恐るだった会話も、今では随分自然になっていた。
ステファンは歳は八歳だそうで、年相応の少年らしい無邪気さを見せることもあれば、時折驚くほど大人びた表情をすることもあった。
鏡の向こうに見える部屋は、豪華ではあるけれど、どこか冷たさを感じる。
磨き上げられた床も、美しい装飾も、幼い子どもが一人で過ごすにはあまりにも寂しく見えた。
そんな彼が住んでいる場所は、楓の生きる世界とは違う世界だった。
彼の住む国は、アストレア王国という国らしい。
ステファンはその国の第三王子だった。
けれど、王子という立場とは裏腹に、彼の人生は八歳の子どもには過酷過ぎる、とても孤独なものだった。
ステファンは、王が身分の低い女官に手を出したことで生まれた。
母親はすでに亡くなっており、彼は今、ほとんど誰も人が訪れることのない、王宮の奥にある部屋で、半ば忘れ去られるように暮らしているという。
『お妃様達は、僕のことが嫌いなんだ』
ある日、ステファンはぽつりとそう言った。
鏡の向こうで、小さな指がぎゅっと服を握りしめられている。
『兄上達も、僕を見ると嫌そうな顔をする』
歳の離れた第一王子と第二王子。
二人はそれぞれ母親の違う王子であり、どちらの母も、自分の子を次代の国王にしたいと強く望んでいた。
そのため、順当にいけば第一王子が継ぐはずの王位を巡り、両者の対立は激しい。
王宮では常に水面下の牽制や争いが絶えず、兄弟の関係は冷え切っていた。
ステファンはその争いに関わりたくないと思っているが、王の子である以上、王位継承権が完全に無いわけではない。
そのせいで、二人の王子からも、あからさまな敵意を向けられていた。
『僕の存在は、邪魔でしか無いんだって。……僕は王位争いに関わるつもりなんて無いのに』
その言い方が妙に慣れていて、楓は胸が苦しくなった。
きっとこの子は、何度もそういう空気を向けられてきたのだ。
あからさまな嫌がらせを受けるだけでなく、それを見て見ぬふりをされたり、まるで居ないもののように扱われたりすることも日常的だという。
それがどれほど心を傷付けるのか、楓には少し分かる気がした。
「あなたが邪魔なわけないわ」
楓がそう言うと、ステファンは少しだけ目を丸くした。
「ステファンが居てくれて、私はこんなにも嬉しいもの」
鏡越しに視線を合わせながら言うと、ステファンは困ったように笑った。
『カエデって、変わってるね』
「そうかな?」
『うん。僕にそんなこと言う人、初めて会ったよ』
その笑顔が少し寂しそうで、楓は何が何でもこの子を笑わせてあげたいと思った。
だから楓は、学校であったことや、好きなお菓子の話、昔母と出かけて楽しかった思い出話など、彼になんでも話した。
『カエデがいる世界って、面白いね』
ステファンは鏡越しに、楽しそうに目を輝かせながら楓の話を聞いていた。
『ガッコウって、本当に誰でも通えるの?』
「うん。子どもなら、身分とか関係なく通えるんだよ」
『平民でも?』
「もちろん。国民は全員、学校に通って読み書きも計算も習うのよ」
驚いたように息を呑む。
『……すごいな』
ぽつりと零れた声には、心からの感嘆が滲んでいる。
『国中の人間がみんな学べるなんて……』
ステファンは信じられないものを見るように、静かに鏡へ触れた。
『それなら、もっと多くの人が賢くなれる。騙される人も減るし、出来ることも増えるんだろうな……』
八歳とは思えないほど真剣な眼差しに、楓は思わず目を瞬かせた。
『カエデの世界は、本当にすごいね』
憧れるように微笑むその姿が可愛くて、楓も自然と笑顔が溢れた。
逆に、楓はステファンの世界の話を聞くのが好きだった。
お城に、貴族に、舞踏会。まるで絵本みたいな話ばかりで、聞いているだけでわくわくした。
その時ふと、そういえば異世界なのに普通に言葉が通じるんだな、と不思議に思った。
けれど、ステファンと話せるならそれで十分だと、楓は深く考えなかった。
『カエデなら、きっと城の人たちも驚くよ』
ある日、ステファンがそんなことを言った。
「どうして?」
『だって、すごく綺麗だから』
あまりにも真っ直ぐに言われて、楓は思わず吹き出した。
「もう、そういうこと平気で言う」
『本当のことだよ?童話に出てくる女神様に、そっくりなんだから』
キラキラした瞳でそう返され、なんだか照れ臭くなってしまった。
けれど、そんな他愛ないやり取りがとても楽しくて、気付けば離れで過ごす時間は、楓にとって特別なものになっていた。
この家に来てから、ずっと居場所がないような気がしていた。
広い屋敷の中で、楓だけが異物のようだった。
けれど、鏡の向こうの小さな王子だけは、楓が来ることを心から喜んでくれる。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
ステファンと話している間だけは、孤独を忘れられた。
そしてそれは、きっとステファンも同じだったのだと思う。
『カエデは、どんな王が良い王だと思う?』
ある日、ステファンが楓に真面目な表情で聞いてきた。
楓は少し考えてから答える。
「うーん、そうね……。力で支配する様な王様より、ちゃんと国民のことを見て、考えてくれる王様がいいなって思うわね」
鏡の向こうで、ステファンが楓の言葉を真剣に聞いているのが分かった。
それから、何かを大事に抱えるように、そっと視線を伏せる。
『……僕も』
小さな声だった。
『そんな王が治める国だと、いいと思う』
その言葉は静かで、けれどどこか決意を宿した様な、力強い声だった。
『ねえ、カエデ』
「ん、なぁに?」
鏡の向こうで、ステファンが少しだけ言いにくそうに目を伏せる。
『……いつか、本当に会えたらいいのに』
その声は小さかった。
楓は少し驚いて、それから柔らかく笑った。
「そうね」
本当に会えることはきっとない、鏡越しにしか繋がれない、不思議な世界。
けれど、それでも。
「私もあなたに会いたいわ」
本心からそう返すと、ステファンはぱっと嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、楓も笑う。
だから楓は、夏休みが終わるまで、毎日のように離れへ通った。
まるで、そこだけが自分の居場所であるかのように。




