第二十五話 一夜が明けて
牢に監禁されてから、一夜が明けた。
薄暗い石造りの牢には、朝も昼も曖昧な薄光しか差し込まない。
時間の感覚すら狂いそうになる閉塞感の中で、楓は小さく息を吐いた。
目を閉じるたびに、攫われた瞬間が脳裏をよぎり、昨夜はほとんど眠れなかった。
背後から押さえ込まれた感触。
甘い薬の匂いに、遠ざかっていく意識。
そして何より、ステファンの顔が思い浮かんだ。
(……心配してるよね)
きっと今頃、必死に探してくれている。
そう思う一方で、自分が彼の弱点として利用されている現実が苦しく、ぎゅっと指先を握った。
すると隣から、マリアが静かに声をかけてきた。
「カエデ様、少しでも休めましたか?」
「……うん。マリアは?」
「私は大丈夫です」
そう言って微笑むが、顔色は悪く、首筋にはまだ痣が残っている。
本当は全然大丈夫じゃないはずなのに。
それでもマリアが気丈に振る舞ってくれていることが分かって、楓は胸が締め付けられた。
その時、重い足音が近付いてきた。
現れた男は無言で二人の前に立ち、乱暴な手つきで皿とコップを置き、それだけするとすぐにその場から離れていった。
床へ置かれたのは、硬い黒パンと薄いスープだった。
楓は不安気に皿を見つめる。
「……食べて平気かな」
思わず漏れた声に、マリアも表情を曇らせた。
何が入っているか分からない。
薬を盛られている可能性だってある。
けれど、食べなければ体力がもたないのも事実だった。
しばらく沈黙した後、マリアが静かに皿を手に取った。
「マリア?」
「私が確認します」
「えっ」
止める間もなく、マリアはまず水の臭いを慎重に嗅いだ。
次にスープの匂いを嗅ぎ、そして僅かに口へ含んだ。
楓は不安で胸が苦しくなる。
「マリア、危ないよ……!」
「もし何か入っていても、カエデ様より先に気付けます」
きっぱりと言い切る。
その姿に、楓は言葉を失った。
マリアは少し時間を置き、それから静かに頷いた。
「……大丈夫そうですわ」
「本当に?」
「はい。少なくとも、薬物の気配はごさいません」
そう言って、小さくパンを千切って口にする。
問題ないことを確認すると、ようやく楓へ皿を差し出した。
「食べてください。今は体力を落とす方が危険ですわ」
優しい声音に、楓は胸が熱くなる。
「……ありがとう」
小さくお礼を言い、楓も食事を口にした。
その時、突然外が騒がしくなった。
「っ!?」
何かが激しくぶつかり合う音が、遠くから響いてくる。
楓とマリアは顔を見合わせた。
「どうしたのかな……?」
空気が明らかに変わっている。
激しい怒号と金属音、慌ただしく駆け回る足音。
何か異常事態が起きている。
外の気配に意識を向けたその時、牢の扉が乱暴に開かれた。
そこに居るのは、昨日の首謀者の男だった。
顔色を変え、息を荒げている。
その手には剣が握られており、楓は反射的に身構えた。
「クソッ……!こんなにすぐに突き止められるとは……!」
男が吐き捨てるような声を上げる。
その背後から、別の男が怒鳴る声がした。
「待てっ!その女は人質だから殺しはするな!だが、緊急事態だ。手足は潰せ」
その言葉に、一気に楓の血の気が引いた。
剣を持つ男が、ゆっくりこちらへ近付いてくる。
殺されはしない。けれど、無事では済まないと瞬時に理解して、全身が震えた。
マリアが咄嗟に楓を庇うように前へ出る。
「下がってください、カエデ様!」
「マリア……!」
けれど、守られているだけは嫌だった。
楓は反射的にマリアの腕を掴むと、自分が前へ出る。
せめて彼女だけでも守りたい。そんな思いだけで身体が動いていた。
その時、男が剣を振り上げた。
ぎらりと刃が光り、振り下ろされる。
(……っ、もう駄目……!)
思わず目を瞑った時、鈍い音が響いた。
「……え?」
男の動きが止まり、次の瞬間、その身体が崩れるように前へ倒れる。
楓は呆然と目を見開いた。
その後ろに、一人の人物が立っていた。
見慣れた金色の髪と、鋭く冷えた碧の瞳。
彼が楓を見た瞬間、その瞳が大きく揺れた。
「……ステファン」
掠れた声が零れた、次の瞬間、ステファンは駆け寄るように楓を抱き締めていた。
「……っ」
壊れ物を抱き締めるみたいに大切に、腕の中へ閉じ込められる。
聞こえる心臓の音が激しい。
いつもの穏やかな彼とは違い、息も乱れている。
ここまで、必死に来てくれたのだと分かった。
ステファンは楓を抱き締めたまま、震える声で言った。
「間に合った……」
まるで自分自身に言い聞かせるように呟かれたその言葉を聞いた瞬間、張り詰めていたものが、一気に切れた。
もう駄目かもしれないと何度も思った。
胸の奥に張り付いていた不安が、彼の声を聞いた瞬間、ようやくほどけていく。
楓はステファンの背中に腕を回し、きゅっと服を掴んだ。
「カエデ、もう大丈夫だよ」
耳元で落ちた優しい声に、張り詰めていた心が緩む。
安心した途端、身体から力が抜けた。
「……ステファン」
もう一度、すがるように彼の名を呼ぶと、彼の腕が優しく抱き締め返してくれる。
その温もりに包まれながら、重たい疲労が一気に押し寄せてきた。
もう大丈夫なのだと思った瞬間、急に瞼が重くなった。
「カエデ?」
心配そうな彼の声が聞こえた気がした。
大丈夫だよ、心配しないで。
心の中でそう答えながら、楓は安心するように目を閉じた。
張り詰めていた糸が切れたように、意識は静かに遠のいていった。




