第二十三話 唯一の弱点
重たい頭痛と共に、楓は意識を取り戻した。
「……っ」
ゆっくり目を開ける。
石造りの壁に、鉄格子のはまった小窓、いかにも重厚な造りの扉。足元には冷たい石床が広がり、湿った空気が鼻をつく。
そこは、見知らぬ薄暗い空間だった。
「……ここ……」
掠れた声が漏れる。
身体を起こそうとした瞬間、ずきりと頭が痛んだ。
攫われる直前に嗅がされた甘い香りを思い出し、楓の顔が青ざめる。
(そうだ……私……)
誘拐されたという事実が、遅れて現実味を伴って押し寄せてきて、心臓が早鐘を打った。
震える息を吐きながら、周囲へ視線を巡らせる。しかし、どこにも脱出できそうな場所は見当たらなかった。
「カエデ様……!」
その時、聞き慣れた声に名前を呼ばれ、ハッとして視線をそちらに向けた。
「マリア!」
部屋の隅に、マリアがいた。
その首筋には赤黒い痣がある。
「その怪我……大丈夫!?」
慌てて駆け寄る楓へ、マリアは苦笑気味に微笑みを浮かべた。
「私は平気です。それより、カエデ様がお目覚めになって本当に良かった……」
その声に、楓は胸が締め付けられる。
マリアは、自分を追ってきてくれたのだ。
そしてきっと、そのせいで巻き込まれた。
「ごめんなさい……私のせいで……」
「違います」
マリアは即座に否定した。
「謝らないでください。カエデ様を攫った者達が悪いのです」
その言葉に、楓は唇を噛む。
ここがどこなのかも分からず、不安も大きい。
けれど、一人ではない。隣にマリアが居てくれている。
そう思うだけで、少しだけ恐怖が和らいだ。
その時、重い足音が近付いてきた。
外から鍵の外れる音が響いた後、部屋の扉が開き、数人の男達が姿を現した。
中央に立つのは、年配の貴族らしき男だった。
品定めするような視線が、楓へ向けられる。
「目を覚ましたか」
男の低い声に、楓は警戒するようにマリアの前へ立つと、男を真っ直ぐ見据えた。
「あなた達、誰なの」
男は一瞬だけ目を細めると、喉の奥でクッと笑った。
「ほお。案外気が強いんだな」
「答えて。あなた達は何者なの」
怯むことなく見返すと、男は肩を竦めた。
「……まあいい。元より隠すつもりもないからな」
男は薄く笑う。
「第一王子妃派、と言えば分かるか?」
楓は小さく息を呑んだ。
第一王子は既に亡くなっている。王子妃も表向きは静養のため王都近郊の離宮へ退いているとされていた。
けれど、王子妃は王家の実権を諦めた訳ではなかった。
王位への執着を捨てきれない者達は、今なお密かに勢力を保ち続けていたらしい。
男はゆっくりと言葉を続けた。
「我々はまだ終わっていない。王位は本来、第一王子殿下のものだったはずだ」
憎しみを滲ませた声だった。
「だが今や王宮は、あの紛い物の第三王子を王と認めている。貴族達の多くも既に奴へ付き従っている」
男は忌々しげに吐き捨てる。
「それだけではなく、奴は民衆の支持まで集め始めた。……民に媚びるなど王族のすることではないというのに、奴は恥もなくそれを利用し、民の心を操っている」
「……っ!」
ステファンのこれまでの語り尽くせないほどの努力を侮辱する言葉に、楓は怒りで身体を震わせた。
だが男はそんな楓を冷ややかに一瞥すると、忌々しげに拳を握り締めた。
「全くもって、腹立たしいことだ。……だが正面からぶつかれば、こちらに勝ち目はない」
一度言葉を切り、男は楓を見据えた。
「……だから我々は奪うことにしたのだ」
鋭い視線が楓へ突き刺さる。
「第三王子の、唯一の弱点をな」
その瞬間、楓の背筋が凍った。
自分は、彼を揺さぶるために攫われたのだ。
その時、男の隣に立っていた人物が何か言葉を発した。
それは、楓には聞き慣れない言語だった。
何を言っているのかは分からない。けれど、冷たい瞳でこちらを見下ろすその視線に、ぞくりと背筋が粟立った。
「王宮内部にも、未だ我々に通じている者はいる。だからお前を外へ連れ出すことが出来た」
そこまで言って、男はニヤリと口元を歪めた。
「安心しろ、今は殺すつもりはない。お前は第三王子との交渉を有利に進めるための駒だからな。……せいぜい役に立ってもらうぞ」
そう言われ、楓は悔しさに拳を握り締めた。
ステファンはずっと危険な場所で生きてきた。
王位を巡る争いの中で、多くの敵意や悪意に晒されながら、それでも前へ進んできたのだ。
そして今、自分はその弱点として利用されようとしている。
その事実が、ただ苦しかった。
だが、その時だった。
「……ふざけないでください」
低く押し殺した声が響く。
楓が振り返ると、マリアが男達を鋭く睨み据えていた。
「カエデ様を道具のように扱い、傷付けておいて……よくそんなことが言えますね」
普段の穏やかな彼女からは想像も出来ないほど冷たい声だった。
「前王妃様ともあろうお方が、配下にこのような真似をさせるとは。……随分と卑劣な手を使うのですね」
男達の空気が変わる。
「何だと?」
「カエデ様を利用し、陛下を揺さぶろうなど」
次の瞬間、一人の男が苛立ったように前へ出た。
「黙れ」
そのままマリアへ向かって足を振り上げる。
「っ!」
楓は反射的に飛び出していた。
マリアの前へ立ちはだかる。
「やめて!!」
男の動きが止まる。
楓は震えながらも、真っ直ぐ相手を睨み返した。
「マリアに手を出さないで!」
「……チッ」
緊迫した空気の中、男は舌打ちをして足を下ろした。
流石に楓へ直接手を上げるわけにはいかないらしい。
第一王子妃派にとっても、楓は重要な交渉材料だ。
傷を付ければ意味がない。
楓は一歩も退かなかった。
本当は今すぐ泣き出したいほど怖かった。
けれど、マリアが傷付けられる方が、もっと嫌だった。
男達を率いていた貴族が、僅かに目を細める。
「気の強い娘だ」
楓は何も答えず、ただ強く睨み返す。
男はそんな楓をしばらく見つめていたが、やがて面倒そうに息を吐いた。
「……しばらくそこで大人しくしていろ」
それだけ言うと、男達は部屋を出ていった。
扉が閉まり、鍵の掛かる音が響く。
重い足音が遠ざかり、やがて完全に静かになると、楓はようやく肩の力を抜いた。
「カエデ様……」
振り返ると、マリアが呆然とした顔でこちらを見ていた。
「大丈夫?怪我、してない!?」
慌てて確認する楓へ、マリアはふっと苦笑する。
「……ありがとうございます」
けれど次の瞬間、マリアは表情を引き締めた。
「ですが、今のは見過ごせませんわ」
「え?」
「カエデ様ご自身が危険な目に遭う可能性があったのですよ」
とても真剣な声音だった。
「どうして、あのような無茶を……」
楓は少しだけ目を伏せる。
けれどすぐに顔を上げ、真っ直ぐマリアを見て言った。
「だって、マリアを守りたいんだもの」
その言葉に、マリアの目が見開かれる。
「あなたのことが大切なの。だから、見てるだけなんて出来ないわ」
楓は、はっきりと言い切った。
頑として譲らない声音に、マリアはしばらく言葉を失っていた。
やがて、ふるりと肩を震わせる。
「……本当に、あなた様は……」
マリアの瞳からぽろり、と涙が零れ、震える声で呟いた。
「ありがとうございます……」
楓がそっとマリアの手を握ると、マリアが力強く握り返した。
そしてマリアは涙を拭い、力強く言った。
「カエデ様、絶対にここから生きて帰りましょう」
その言葉に、楓もしっかりと頷いた。
「うん」
怖くないわけではない。
先の見えない不安も、胸の奥には確かにあった。
それでも、必ず生きて帰る。
マリアと共にここを脱出し、あの人の元へ戻るのだ。
楓は静かに、その決意を固くした。




