第二十二話 偽りの伝令
舞踏会を終えた、ある日の午後のこと。
その日、楓は自室で、本を読みながら穏やかな時間を過ごしていた。
窓から差し込む柔らかな陽射しが、床へ淡く広がっている。
舞踏会を終えてから、貴族達から向けられる視線が以前よりも増し、それに少し戸惑うことはあった。
けれどそんな時は、あの日ステファンが耳打ちしてくれた「なんとかなる」という言葉を心の中でそっと呟く。
すると心が落ち着いてきて、きっと大丈夫だと思えた。
その言葉を思い返して、穏やかな気持ちのまま本を読み進めていると、コンコン、と部屋の扉が叩かれた。
「カエデ様」
女官の声に、楓は顔を上げた。
「はい」
「陛下がお呼びです」
その言葉に、楓はぱっと表情を明るくした。
「ステファンが?」
「はい。急ぎでとのことです」
ステファンはいつも公務で忙しくしていて、こんなふうに自分を呼ぶことは滅多にない。
そのため楓は、何か用事でもあるのだろうかと首を傾げた。
「分かったわ。すぐに向かいます」
読んでいた本を閉じて、立ち上がる。
そして女官に案内されるまま、部屋を後にした。
廊下を歩きながら、何かあったのかなと思いつつ、同時に楓は小さく胸を弾ませていた。
昨夜も少し遅くまで仕事をしていて、今朝も朝から忙しく、朝食も一緒に食べられなかったのだ。
だからだろうか。こうして呼ばれたことで、彼の顔が見られると思うと嬉しかった。
彼は、ちゃんと休めているのだろうか。
そんなことを考えて心配にもなり、早く顔が見たいという思いが募る。
だが歩き続けるうちに、楓は少しずつ違和感を覚え始めた。
いつもステファンがいる執務室とは、方向が違う。
しかも、人の気配が少ない。
豪奢だった王宮の廊下は、次第に静けさを増していき、窓から差し込む光も減っていく。
人気のない通路へ入ったところで、楓は前を歩く女官へ声をかけた。
「あの……ステファンは、どこにいるの?」
けれど彼女は振り返らない。
「もうすぐです」
短く答えるだけだった。
その声音に、楓の胸がざわりと波立つ。
何かがおかしいと、そう思った瞬間だった。
突然、背後から強い力で腕を掴まれた。
「……っ!?」
驚く間もなく、そのまま後ろへ引き寄せられる。
屈強な男の腕が、楓の身体を羽交い締めにした。
「やっ……!?」
悲鳴を上げようとした瞬間、口元へ布が押し当てられる。
甘ったるい、嫌な匂い。
「……んっ……!」
息を止めようとしたが、突然のことに完全には防げず、視界が滲み、頭がくらりと揺れた。
(なに……これ……)
身体から力が抜ける。
足元から崩れそうになるのを、男が強引に支えた。
遠くで、女官の冷えた声が聞こえた。
「急ぎなさい」
理解した時には、もう遅かった。
(ステファン……)
霞む視界に薄暗い廊下がぼんやりと映り、そのまま楓は意識を手放した。
*
一方その頃、マリアは小さく眉をひそめていた。
楓が先ほどステファンに呼ばれたので、今は部屋でその帰りを待っている。
ふと廊下の方へ意識を向ける。
「……妙ね」
いつもなら、この時間帯の廊下には女官や使用人が行き交っている。
けれど今日はやけに人の気配が少なく、全体的に静かすぎる。
言葉には出来ない違和感が胸に引っ掛かった。
「何もなければ良いのだけれど……」
何か嫌な予感がして、マリアは念のためステファンのもとへ確認に向かうことにした。
そして執務室付近へ来たところで、騎士へ声をかける。
「失礼いたします。陛下は中に?」
すると騎士は不思議そうな顔をした。
「いえ。本日はまだこちらへは戻られておりませんが」
「……え?」
空気が凍り、血の気が引く。
「カエデ様が、陛下に呼ばれたと……」
「そのような命令は聞いていません」
その瞬間、マリアは駆け出していた。
嫌な予感が、一気に確信へ変わる。
人気の少ない廊下を走る。
すると床へ、見覚えのある髪飾りが落ちていた。
「っ……!」
楓のものだ。
マリアの表情が険しくなる。
そのまま奥へ進むと、微かに物音が聞こえた。
急いで角を曲がり目にした光景に、マリアは息を呑んだ。
そこに居たのは大柄な男達。そしてその腕の中に、意識を失った楓の姿があった。
「カエデ様!!」
鋭い声で楓を呼ぶと、男達が一斉に振り返った。
マリアは護身用として腰に差していた小さな短剣を抜いた。
「その方を離しなさい!」
男の一人が嘲笑う。
「たかが女一人で何ができる」
それでもマリアは迷わず駆け出した。
狙いは勝つことではない。ほんの一瞬でも相手に隙を作り、楓を取り戻すことだった。
躊躇なく短剣を振るい、男へ斬りかかる。
だが男はあっさりと剣で受け止め、次の瞬間、腕に重い衝撃が走った。
「くっ……!」
相手は、明らかに訓練された相手だ。
一方のマリアにあるのは、身を守るために教わった護身術だけだった。
だが、ここで退くわけにはいかない。食らいつくように踏み留まり、必死に攻撃を繰り返す。
けれど、男達は冷静だった。
数合も打ち合わないうちに囲まれ、背後へ回り込まれる。
「っ……!」
強烈な手刀が首筋に叩き込まれ、視界が大きく揺れる。膝から力が抜け、そのまま崩れ落ちた。
(カエデ様……!)
それでも手を伸ばそうとした。
意識を保てず霞む視界の中、男達が冷たく見下ろしていた。
「顔を見られた。この女も連れていけ」
遠ざかっていく声。
そしてマリアの意識は、深い闇へ沈んでいった。




