第二十話 舞踏会の日(ステファン視点)
※第十八話『舞踏会の日』のステファン視点の話です。
舞踏会当日の夕刻。
ステファンは自室で正装に袖を通しながら、静かに息を吐いた。
鏡に映る自分の姿を一瞥する。
黒を基調とした礼装。金糸の刺繍を控えめに施したそれは、王としての威厳を示すためのものだ。
白い礼服でも構わないのだが、今回あえて黒を選んだのは、カエデの髪と瞳と同じ色を纏いたかったからだ。
今夜の舞踏会は、ただの社交の場ではない。
第一王子派と第二王子派の争いが長く王宮に影を落としていた今、貴族達は未だ互いを探り合っている。
表面上は沈静化していても、水面下では権力争いが続いていることを、ステファンは嫌というほど理解していた。
だからこそ、今夜は必要だった。
カエデが、自分の庇護下にあることを、有力貴族達へ明確に示す。
誰であろうと軽々しく手を出せないように牽制するためにも、彼女を伴って舞踏会へ出ることには大きな意味があった。
王が特別視している存在というだけでも、貴族達の興味を引くには十分だ。
これ以上、彼女自身に悪意が向けられる前に、立場を明確にしておかなければならない。
王宮で生きる以上、曖昧さは時に命取りになる。
重すぎる意味を持つ本来の目的はカエデ自身には告げてはいないが、今回の舞踏会は、そういった意味を持っていた。
「……それはそれとして」
ぽつりと零した声に、自分でも苦笑した。
正直なところ、今の胸の内を占めているのは、政治的な思惑だけではない。
むしろそれ以上に、特別な意味を込めて贈ったドレスを彼女が着て、多くの人の前で隣に立ってくれるという事実に、朝から妙に落ち着かなかった。
淡い桃色のドレスを選んだのは、カエデの柔らかな雰囲気によく似合うと思ったからだ。
最初はもっと別の色も考えた。
けれど、幾つもの布地を見比べるうちに、自然とその色から目が離せなくなった。
このドレスを纏う彼女を想像して、この色しかないと思った。
そして装飾品は、あえて自分の瞳と同じ碧色の宝石を選んだ。
政治的な意図など関係なく、ただ純粋に、彼女に自分の色を纏って欲しかった。
彼女がそれを身につけた姿を想像するだけで、胸の奥が満たされるような幸福感を覚える。
ステファンは小さく息を吐いた。
八歳のあの日から、ずっと彼女が心を支配して離してくれない。
鏡越しに出会ったあの日から、気付けば、彼女は自分の世界の中心にいた。
そしてその思いは、彼女が居なくなってからも焦がれるように増大していき、目の前に現れた今は、さらにはっきりと輪郭を持って、大きなものになっていっていた。
彼女が笑うだけで嬉しい。彼女が泣けば苦しい。無事でいてくれるだけで安心する。願わくば、ずっとそばに居て欲しい。そんな感情を知ってしまった。
扉の外で控えていた侍従が、準備が整ったことを告げる。
ステファンは頷き、逸る気持ちを抑えつつ、自室を後にした。
やがてカエデの部屋の前へ辿り着く。
一度呼吸を整え、扉をノックして、中へ入った瞬間、視界に映った姿に、ステファンは息を呑んだ。
「カエデ」
自然と名前が零れる。
振り返った彼女は、まるで春の女神のようだった。
淡い桃色のドレスに、柔らかく結い上げられた髪。
そして胸元を彩る碧の宝石と耳元で揺れる装飾が、灯りを受けて静かに輝いている。
想像していた以上に、あまりにも綺麗で、ただ見つめることしかできなかった。
ようやく絞り出した声は、自分でも分かるほど熱を孕んでいた。
「カエデ、綺麗だ。……とても似合ってる」
するとカエデはみるみる頬を染め、小さく礼を言った後、恐る恐るというようにこちらを見上げた。
「あなたの格好も、とても素敵ね。その……かっこいいわ」
「…………え」
一瞬、思考が止まった。
予想していなかった言葉に、心臓が大きく跳ねる。
普段なら多少の賛辞で動揺したりしない。
王族として、社交辞令など嫌というほど受けてきた。
だが、彼女から向けられる言葉だけは別だった。
たった一言で、理性が吹き飛びそうになる。
慌てて手の甲で口元を隠した。
耳まで熱が上がり、情けないほど狼狽している自覚はあった。
けれど、どうにもならない。
カエデから、真っ直ぐにそんな可愛いことを言われて平然としていられるほどの余裕など、持ち合わせていなかった。
そして、カエデがくすりと笑った。
「ふふ……」
「……笑わないで」
困ったように言いながらも、責める気には到底なれない。
「だって……そんな反応すると思わなくて」
「……カエデが悪いよ」
「えっ、私?」
「うん、そう」
こんな風に心を掻き乱されるのは、完全に彼女のせいだ。
けれどカエデはまた楽しそうに笑う。
その笑顔を見た瞬間、あっさりと負けを認めてしまった。
「もう……。一生カエデには敵わない気がする……」
彼女はきっと、自分がどれほど夢中になっているのか、まだちゃんと分かっていない。
だが、それでいいのかもしれない。
無自覚なまま笑っていてくれる方が、カエデらしい。
これ以上このまま話し続けていたら本当に抑えが利かなくなりそうだと思い、気持ちを切り替える。
今夜は有力貴族達の多く集まる舞踏会だ。
カエデを守るためにも、冷静でいなければならない。
そう自分に言い聞かせながら、ステファンはそっと姿勢を正した。
「それじゃあ、行こうか」
手を差し出す。
するとカエデは、少し緊張したような顔で、その手に自分の手を重ねた。
細く柔らかな手がそっと触れた瞬間、胸がじんわり熱くなる。
何よりも大切な彼女。絶対に傷付けたくないという想いが、改めて胸に深く刻まれる。
ステファンはその手を優しく受け止めると、そっと自らの腕へ導いた。
「……うん」
小さく頷くカエデを見つめ、自然と目元が緩む。
これから向かう先には、数え切れないほどの視線が待っている。
好奇や探りの目線も、中には悪意も存在するだろう。だが、誰が何を思おうと関係ない。
彼女は自分が守る。
そのためなら、どんなものでも利用する。
そう静かに決意しながら、ステファンはカエデと並んで歩き出した。




