第十七話 二人きりのダンスの練習
毎日ダンスや歩き方、お辞儀の仕方などの所作の練習を重ね、舞踏会まであと二週間ほどになった頃。
マリアの指導のおかげで、楓は貴族の振る舞い方にもずいぶんと慣れてきていた。
最初はぎこちなかった歩き方も、以前より自然になったと言われる。
ダンスもまだ完璧ではないものの、ようやく曲に合わせて踊れる程度にはなってきた。
とはいえ。
「っ……、また間違えた……」
その日の練習でも、難しいステップになると足がもつれ、何度か踏み外してしまった。
「カエデ様、難しく考え過ぎですわ。もっと力を抜くといいですよ」
向かい合ったマリアが苦笑する。
「頭で順番を追おうとすると、逆に身体が固まってしまいますよ」
「うぅ……難しいなぁ……」
元より身体を動かすよりも、書庫に籠って本を読みあさる方が好きな性分で、運動神経はあまり良いとは言えない。
その上、今は失敗してステファンに恥をかかせたくないという思いが強く、そう思えば思うほど、緊張して身体が強張ってしまった。
そんな楓を見て、マリアはふっと柔らかく笑った。
「ですが、随分と上達していますわ」
「……本当?」
「ええ。舞踏会で陛下と踊る頃には、きっと問題ありませんわ」
その名前が出た瞬間、胸が小さく跳ねる。
彼の隣で堂々と踊りたい。
そう思うと、例え苦手で難しい動きだったとしても、頑張って上手くなりたいという気持ちが溢れてくる。
楓はマリアに「ありがとう!頑張るね」とお礼を言うと、気合いを入れ直して、再度練習を再開するのだった。
*
その日の夜。
湯浴みを済ませ、髪も乾かし終えた後、楓は部屋でダンスの復習をしていた。
今日の練習で何度もつまずいたステップを思い返しながら足を動かしていると、不意に扉がノックされた。
「カエデ、起きてる?」
「ステファン?」
慌てて扉を開けると、そこには優しく頬を緩めたステファンが立っていた。
「こんばんは。少しだけ時間いい?」
「う、うん。どうしたの?」
部屋へ招き入れると、ステファンは気遣わしげに楓を見た。
「ダンスの練習、順調?」
「あ、えっと……実はまだちょっと、苦戦してて……」
正直に答えると、ステファンはふっと表情を和らげた。
「じゃあさ……今から一緒に練習しようよ」
「え?」
「本番は私と踊るんだし、相手にも慣れておいた方がいいからね」
さらりと言われ、楓の心臓が大きく跳ねた。
「い、今ここで……?」
「うん。……駄目?」
そんな風に優しく首を傾げられたら、断れる訳がない。
「……駄目じゃ、ないけど」
さっきからずっと頬が熱い。
ステファンはどこか嬉しそうに微笑むと、部屋の中央へ歩み寄った。
「手、貸して」
差し出された手に、おそるおそる自分の手を重ねる。
その瞬間、そっと指が絡められて、反射的にびくりと肩が揺れた。
「ふふ。カエデ、そんなに緊張しなくて大丈夫だよ」
低く穏やかな声が降ってくる。
マリアとの練習ではこんなことで意識なんてしなかったのに、ステファン相手だと全然駄目だ。
近い距離でこうして手を取られるだけで、鼓動がうるさい。
「まずはゆっくりね」
ステファンが自然に楓を導く。
一歩、また一歩と、足を動かす。
最初はぎこちなかった足取りも、不思議とステファンに合わせると動きやすかった。
「カエデ、上手だね」
「え?」
「ちゃんと踊れてるよ」
優しく褒められて、胸がくすぐったくなる。
「ステファンが上手だからだよ……」
「ううん、カエデが頑張ってるからだよ」
そんな風に真っ直ぐ言われると、ますます恥ずかしい。
けれど嬉しかった。
近くで見つめられる度に、心が甘く溶けていく。
「ほら、次は回って」
「っ」
くるりと身体を引かれ、楓は慌ててステップを踏んだ。
その瞬間、足がもつれてしまった。
「あ……っ」
しまった、と思った時には遅かった。
ぐらりと身体が傾く。
「カエデ……っ!」
咄嗟にステファンが抱き寄せる。
けれど体勢を立て直すには間に合わず、二人はもつれるようにベッドへ倒れ込んだ。
「きゃっ……!」
柔らかな寝具が沈む。
気付けば楓は、ステファンに覆い被さるような体勢で倒れていた。
「ご、ごめん……!」
慌てて起き上がろうとしたその時、ぐい、と腕を引かれた。
「……ステファン?」
まるで逃がさないとでもいうように、ぎゅっと、ステファンの腕に抱き締められて、心臓が一気に跳ね上がる。
「その……ごめんね、大丈夫?」
しどろもどろになりながら楓がもう一度謝ると、
「ううん。むしろ、役得」
耳元に、低く甘い声が落ちた。
「……っ!」
かあっと頬が熱くなる。
(や……役得って、何それ)
意味を理解した瞬間、羞恥で頭が真っ白になる。
「ス、ステファン……!」
「だって、カエデから抱きついてきてくれたから」
「ち、違……っ、事故だから……!」
「分かってる」
くす、と喉の奥で笑う声が聞こえる。
けれど抱き締める腕は緩まない。
互いの呼吸まで感じる距離に、楓の頭は完全に限界だった。
「ふふ。顔、真っ赤だ」
「だ、だって……!」
こんなの、意識しない方が無理だ。
するとステファンは、頬を赤らめて反論する楓の姿を幸せそうな瞳で見つめながら、楓の後頭部に手を置くと、優しい手つきでその黒髪を撫でた。
「カエデ、可愛い」
「っ……」
甘い声音に、胸が苦しくなる。
次の瞬間、ちゅ、と額に柔らかな感触が落ちた。
「……え」
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
けれど遅れて理解して、既に熱かった楓の頬がさらに熱を持った。
「ごめん、我慢出来なかった」
ステファンは謝りつつも、全く悪びれた様子もなく、嬉しそうな声でそう言った。
「っ……ずるい……」
「何が?」
「そんなこと、平気な顔で言うの……」
楓が消え入りそうな声で言うと、ステファンは少しだけ困ったように目を細めた。
「平気じゃないよ」
「え……?」
「本当は、かなり緊張してる」
低く落とされた声に、どくりと心臓が鳴る。
真っ直ぐ見つめてくる碧色の瞳があまりにも甘くて、それ以上何も言えなくなってしまった楓を、ステファンは愛おしそうに抱き締め直した。
「……ね、もう少しだけ、このままでいてもいい?」
その申し出を、楓は断れるはずもなかった。




